したら好ささうなものなのに。あの仏壇の抽斗に蔵されてゐる黄金の小判は誰の所有権に属するものでもない筈だ。顔を洗つて出直せ、身装をあらためて出直せ――」
 私は、このやうなことを幾度吾が胸に繰り返したか解らなかつたが、決してそんな言葉に従ふわけに行かなかつた。理性では制御し得ぬ心的現象である。私の胸は戦きのために気たたましい半鐘がヂヤンヂヤンと鳴り響き、足は地を踏む心地すらなかつたにも拘はらず、身動きもせずに屋内の様子を窺つてゐたのである。斯んな思ひを忍び得るほどの力量があれば、他の如何なる職業に就いても、より平易な朗らかさを持つて事に当れる筈である。私の血潮の流れのうちには、悪を好む変質性が潜んでゐるのだらう。自ら秘密をつくり、秘密の帷のうちで吾と自ら吾肉体に邪悪の針を打ち込んで、快哉を叫ばんとする如き犯罪性に憧れてゐるのだらう。
 私の腰には、皮袋に突きさした短剣が用意されてゐた。
 屋内は、ひつそりとして人の声すらなかつた。……あの仏壇の抽斗は「永久に開かぬもの」といふ、家の伝来の掟であつたから、この私の行為が今、他人の眼にさへ触れなければ、永遠に私の所業は秘密の裡に埋れる筈である
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