したら好ささうなものなのに。あの仏壇の抽斗に蔵されてゐる黄金の小判は誰の所有権に属するものでもない筈だ。顔を洗つて出直せ、身装をあらためて出直せ――」
私は、このやうなことを幾度吾が胸に繰り返したか解らなかつたが、決してそんな言葉に従ふわけに行かなかつた。理性では制御し得ぬ心的現象である。私の胸は戦きのために気たたましい半鐘がヂヤンヂヤンと鳴り響き、足は地を踏む心地すらなかつたにも拘はらず、身動きもせずに屋内の様子を窺つてゐたのである。斯んな思ひを忍び得るほどの力量があれば、他の如何なる職業に就いても、より平易な朗らかさを持つて事に当れる筈である。私の血潮の流れのうちには、悪を好む変質性が潜んでゐるのだらう。自ら秘密をつくり、秘密の帷のうちで吾と自ら吾肉体に邪悪の針を打ち込んで、快哉を叫ばんとする如き犯罪性に憧れてゐるのだらう。
私の腰には、皮袋に突きさした短剣が用意されてゐた。
屋内は、ひつそりとして人の声すらなかつた。……あの仏壇の抽斗は「永久に開かぬもの」といふ、家の伝来の掟であつたから、この私の行為が今、他人の眼にさへ触れなければ、永遠に私の所業は秘密の裡に埋れる筈である。
………………
それから私が首尾好く仕事を成し遂げるまでの、自分の姿や物腰や心持などを私は今此処に誌すに忍びない。やがて私は戯曲家の仮面を被つて、大時代劇の舞台で、秘かに、審かに、実を吐いて、人知れず顔をあからめよう。
………………
裏の竹藪の蔭にある栗の木に繋いでおいたロシナンテの傍らに、抜足で立ち帰ると私は二つの袋を鞍の両脇にしつかりと結びつけ、幾枚かの小判は財布にぎりぎりと巻き込み、息を殺して街道に忍び出た。そして、ロシナンテの蹄から、ワザと水に濡らしておいた草鞋を脱ぎ去つて、体をかはかして鞍上に飛び乗つた。さつきの良心や戦きは忽ち消え去つてしまつて、名状し難い痛快さに襲はれてゐたので、そんな風にして飛び乗りでもせずには居られなかつた。私はロシナンテの鬣の中に顔を埋めて、青白い月の光りを切つてヒウと鞭を鳴した。――野良帰りの農民が通つてしまへば、宵のうちでも絶えて人通りのない小川に沿うた長い一直線の街道である。ロシナンテの四個の蹄は、巨大な霰の如く凄まじく大地を鳴して突風を巻き起しながら一散に駆け出した。何だかわけがわからなくなつてゐた――おそらく、凄まじい風に翻るロシナンテの鬣が、その首根にしつかりと吸ひついてゐる騎手の眼となく鼻となく口となく耳となく、そして露はな胸となく、滅茶苦茶に乱れかかつて息苦しくでもなつたのであらう――騎手は困つたクシヤミの発作に駆られて、顔や胸を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つてゐたが、そのうちに止め度もない涙がパラパラと滾れ落ちてゐた。
春であつた。丘の真下にある村里の灯が、ぼつと滲んでゐた。――そんな全速力の馬の背に伏して、だらしのない顔を埋めてゐる私の耳に、傍らの小川のせせらぎの音が時たま酷く長閑に響いてゐたのを、私は今もはつきりと憶えてゐる。汽車の窓から眺める夜の景色のやうに、白い街道が激流のやうに走り、麦畑が沼のやうに見え、大根の花が蝶々の群のやうに飛び散つて見え、川ふちの猫やなぎの幹が、はつきりとそれと判別出来たことなどを記憶してゐる。
私は、その向うに見ゆる村里の一隅で森に通ふ樵夫のやうな生活を送つてゐた。
私は、その小判と袋の中銀の器とを現代の通貨と売り代へて、都へ上つた。
………………
私は、再びこの夜、あの隣り村の生家を「訪れ」なければならぬ窮境に立ち至つてゐたのである。――ここに至れば私は、何も彼も云つてしまはずには居られない、仮面は被りきれなくなつてしまつた。
アリストファーネスの喜劇を翻訳して、一袋の金貨を持つてゐた――などと、私はこの文章の冒頭に、酷く取り澄して誌してゐたが、あれは虚妄の言だ。あの金貨の袋は、古小判に依つて代へられた最後の銅貨である。第一私には、ギリシヤ喜劇を翻訳するなどといふ偉い学力なんて持合せてゐない。また、砒石の恐怖も同じく虚妄の言語であつた。今時、何んな裏町の理髪所を探さうとも、あんな間抜な魔術師が居るものか。出遇つたとしても私は怖れぬ。――私は、この夜の訪問のために、このむさ苦しい頬鬚を人知れず努めて蓄へたのである。
私は、絵葉書屋の店で、紙製の目覆ひを買つた。仮面舞踏会用の青いマスクである。
「図書館の帰りに、ダンス・ホールへ廻る。そこで会はう。」
私は妻に、このやうな約束をして置いたのであるが、終列車の時間が愈々迫つて、凝つとしてゐられなくなつたので、
「今日R社に赴いたら、文芸講演会に誘はれて急に今から京都へ向つて出発することになつた。僕は、ギリシヤ喜劇の発生に就いて――といふ講演をするのだ。明日の晩おそく、土
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