変装綺譚
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)万花灯《ネオン・サイン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふわ/\して
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一
図書館を出て来たところであつた、たゞひとりの私は――。脚どりが、とてもふわ/\してゐるのを吾ながら、はつきりと感じてゐたが、頭の中に繰り拡げられて行く夢の境と今、其処に足が触れてゐる目の前の風景とが難なく調和してゐるので、面白気に平気で歩いてゐた。
あわたゞしく目眩しい街であつた。真夏の日暮時であつた。濤のやうな――騒音が絶え間なく渦巻いてゐる賑やかな大きな四ツ角であつた。音響の一つ一つに注意すれば、自動車の警笛であり、電車の轍の音であり、建築場から響いて来るクレエンの響きであり、人の会話であり、レストランのオーケストラであり――と何も彼も立所に識別出来るのではあるが、別の想ひに耽つてゐる者の耳には、無限に轟々たる濤の響きのやうであつた。汽車の窓に頬杖を突いて、たつた今出発して来た都の賑やかな風景を、彼方の蕭条たる山の上に回想してゐる時に聞く列車の轍の音の適応性にも似た、円やかな音響が巷に溢れてゐた。轍の音や、深夜に聴く時計の音に伴れて、何でも関はず歌つたり饒舌つたりしてゐると、あの音響のリズムは忽ち歌になり、言葉になり、話相手になりして自由であることを私は屡々経験するが、この巷の混然たる絶間なき響きも、憂への日には吾を憂へ、悦びの日には躍動を、勝手気儘に節づけることは自由であらう――など、私は、さもさも六ヶ敷いことでも考へてゐるかのやうな勿体振つた胸で呟きながら、何といふこともなしに、自信あり気な思ひに打たれてゐた。
私は車道の片端にある瓦斯灯の柱に凭りかかつて、腕を組み、ぼんやりと眼をかすめて、美しい洪水のやうな往来の有様を熱心に眺めてゐた。――一日の務めを終へて、いそいそと帰路を急いで行く人達、夕食後の散歩に手を携へて出かけて来た恋人同志、酒場へ行かう、酒場へ行かう! と先を急いで行く若者達、いや俺はダンス・ホールへ行くのだ――と振り切つて行く者。
「酷い目に合つたよ。彼奴が、そんな悪人とは気付かなかつた。」
「悲しみを知つてゐる悪人であるところが、惨めだな。」
ちよつと耳を澄すと、耳の傍らを寄切つて行く人々の切れ切れの言葉が、はつきり解るのである。
「憐れな男だ。一体彼奴は何に憧れてゐるんだらう。」
「虚妄と現実の境界線を見失つてまるで化物のやうな歩き振りをしてゐるぢやないか。」
聞くまい――と思ふと直ぐに消えてしまふ、面白いやうだ! 私は、作曲家のやうに空を見あげてゐる。見る見るうちに黄昏の帷が深々と降りて行き、彼方の高楼の屋上、此方の店先の軒先に、青、赤、黄の万花灯《ネオン・サイン》の光りが一斉に瞬きはじめてゐた。窓々の拡声ラッパは花やかな夜の開幕を告げる狂燥曲を放送しはじめてゐた。濤の音が忽ち圧倒されてしまふ。
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万有の精は吾が心のうちにあり
天地を流れ、吾が心を流れて
おお、この止め度なさ
君を抱きて吾狂せん――
[#ここで字下げ終わり]
街の音楽は十五世紀の理想家が歌つた恋歌を奏でてゐるかのやうである。試みに、口のうちで、あの長い歌詞の処々を口吟んで見ると、ぴつたりと街の音楽のリズムに合ふのが私は愉快であつた。
「あの唄は流行してゐるの?」
「雨の中で歌ふ――とかといふ、つい此頃出来たレヴュウの小唄でせう。」
娘が斯んなことを話し合ひ、ラヂオに合せて私の知らない文句の歌を口吟みながら過ぎて行つた。
今の私の――とは似ても似つかぬ歌であるらしい。おやおや! と私は思つた。で私は、もう一遍私の歌をうたつて見た。
愉快だ! まさしく、街の音楽は私の歌の伴奏である。
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太鼓の響きが聞えるだらう
唱歌の声が聞えるだらう
新来の音楽隊か
否、否、君よ、驚く勿れ
裏山の沼のほとりの
蘆の中に群れつどうてゐる
五位鷺達の騒ぎだよ
………………
[#ここで字下げ終わり]
突然群集がワーッ! といふ歓声を挙げた。それに伴れて私も思はずその方角の天を仰いで見ると、素晴しい花火が散つてゐるところであつた。――いつの間にか私の眼の前は物凄い群集であつた。花火のあがる空の下を目指してゐるのだ。無数の自動車が行手を塞がれて街一杯にあふれてゐた。そして、合間を置いては堰が切れてドッとばかりに流れ出すのであつた。
「宝あり、青き焔の炎ゆるところに――」
群集
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