ナンテの鬣が、その首根にしつかりと吸ひついてゐる騎手の眼となく鼻となく口となく耳となく、そして露はな胸となく、滅茶苦茶に乱れかかつて息苦しくでもなつたのであらう――騎手は困つたクシヤミの発作に駆られて、顔や胸を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つてゐたが、そのうちに止め度もない涙がパラパラと滾れ落ちてゐた。
 春であつた。丘の真下にある村里の灯が、ぼつと滲んでゐた。――そんな全速力の馬の背に伏して、だらしのない顔を埋めてゐる私の耳に、傍らの小川のせせらぎの音が時たま酷く長閑に響いてゐたのを、私は今もはつきりと憶えてゐる。汽車の窓から眺める夜の景色のやうに、白い街道が激流のやうに走り、麦畑が沼のやうに見え、大根の花が蝶々の群のやうに飛び散つて見え、川ふちの猫やなぎの幹が、はつきりとそれと判別出来たことなどを記憶してゐる。
 私は、その向うに見ゆる村里の一隅で森に通ふ樵夫のやうな生活を送つてゐた。
 私は、その小判と袋の中銀の器とを現代の通貨と売り代へて、都へ上つた。
 ………………
 私は、再びこの夜、あの隣り村の生家を「訪れ」なければならぬ窮境に立ち至つてゐたのである。――ここに至れば私は、何も彼も云つてしまはずには居られない、仮面は被りきれなくなつてしまつた。
 アリストファーネスの喜劇を翻訳して、一袋の金貨を持つてゐた――などと、私はこの文章の冒頭に、酷く取り澄して誌してゐたが、あれは虚妄の言だ。あの金貨の袋は、古小判に依つて代へられた最後の銅貨である。第一私には、ギリシヤ喜劇を翻訳するなどといふ偉い学力なんて持合せてゐない。また、砒石の恐怖も同じく虚妄の言語であつた。今時、何んな裏町の理髪所を探さうとも、あんな間抜な魔術師が居るものか。出遇つたとしても私は怖れぬ。――私は、この夜の訪問のために、このむさ苦しい頬鬚を人知れず努めて蓄へたのである。
 私は、絵葉書屋の店で、紙製の目覆ひを買つた。仮面舞踏会用の青いマスクである。
「図書館の帰りに、ダンス・ホールへ廻る。そこで会はう。」
 私は妻に、このやうな約束をして置いたのであるが、終列車の時間が愈々迫つて、凝つとしてゐられなくなつたので、
「今日R社に赴いたら、文芸講演会に誘はれて急に今から京都へ向つて出発することになつた。僕は、ギリシヤ喜劇の発生に就いて――といふ講演をするのだ。明日の晩おそく、土
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