めながら夢見るやうな眼つきを保つたりした。すると、更にR子が、A子のその顔つきについて何か囁くと、A子は笑ひ転げて椅子から飛びのき、卒倒でもしたかのやうに烈しく寝台に倒れて、頭からタオルをすつぽりとかむつて、その中に四肢をかぢかめて丸くなつたりした。するとR子が駆け寄つて、タオルを奪ひとつて、打つ真似をしたり、腕を引つ張り合つたりした。
 漸く茶卓が終るとA子は、シヤツを着換へて、別の側にある姿見の前に立つて、何か誇り気な様子で自分の姿を眺めた。そして、R子に向つて、何か説明しながら体操に似た運動のポーズを次々に示した。
 R子は端の方に寄つて、A子の運動をぼんやり眺めてゐた。そして、合間々々に何かいち/\点頭いてゐた。
 僕は、運動競技に関しては、この若さであるにも拘はらず全く無智なる徒輩であつたから、いつもA子はR子に向つて、何かの運動競技の構へや要領に就いてのコーチをしてゐるらしいのだが、僕には、それが何種の運動かさつぱり訳が解らなかつた。
 ……僕は、いつも彼女の口許の動きを見て、会話を想像するのが癖になつてゐた。動作と営みと表情などを仔細に注視してゐれば、言葉などゝいふものは大概誤りなく想像出来るであらう――と僕は思つてゐる。
 A子は頻りに半身を折り曲げたり、飛び跳ねる恰好をしたり、重たいものを投げるかのやうな姿をとつて、R子に示してゐた。それが姿見にも映つてゐるので、此方から眺めると全く二人の運動者が、そこに動いてゐる通りに見えた。
 扉《ドア》を誰かゞノツクしたと見える――二人は、一斉に其方を向いて、
「入つてはいけません。」
 と断つたに違ひない。丁度、その時二人は、外出着に着換へようとしてゐるところで、これからコルセツトをしめて靴下を穿かうとしてゐたところであつた。
 二人が支度が出来あがつて、外出しようとした時分此方も丁度退出時間だつた。僕は宿直日であつたが、夕飯を食べに出かけなければならなかつた。

     五

 二人が僕の前を歩いてゐた。僕は素知らぬ風を装ひ(自分が、自分だけに――)二人の後を追うて省線電車に乗つた。僕はA子の隣りに澄して(これも、自分だけの――)腰を掛けてゐた。
 二人は絶えずお喋舌りをしてゐたが、一向僕の耳には入らなかつた。――僕は、真に眼近にA子を見ると、却つて、何だか、嘘のやうな気などがして、たゞ索漠たる夢心地に居るばかりであつた。僕には、あのA子の部屋のみが、輝ける空中楼閣であつて、「地上」で見出すA子の姿などには、何んな魅力も感じてゐない自分を知つた。――僕は、二月も前から電車の中でだけ読むために携へてゐるが未だ十頁も読んでゐない(何故なら僕はA子の部屋を眺めてゐない他の時間でも、不断にあの部屋の幻ばかりを夢見てゐて何事も手につかぬのであつた。)「花の研究」といふ小冊子をとり出して、何時になく落ついた心地で、冒頭の一節を読んでゐた。
「試みに路傍の草の一葉をとりあげて見るならば、吾等はそこに独立不撓の計らざる小さな叡智が働いてゐることを知るであらう。例へば此処に吾等が散歩に出づる時は何処でゝも常に見出す二つのしがない葡萄草がある。これは一握りの土のこぼれた不毛の片隅にでも容易に見出される野生のルーサン即ちウマゴヤシの二変種である。最も通俗の意味で二種の「雑草」である。Aは紅色の花をつけ、Bは豌豆大の小さな黄色の球をつけてゐる。彼女等が尊大振つた野草の間に匐ひ隠れてゐるのを見る際、誰が、かのシラキウスの著名なる科学者よりも遥か昔に、彼女等が自らアルキメデスのスクリウを発見して、之を飛行の術に応用してゐるのに気づいたであらうか。」などゝ読んでゐるうちに新橋駅に着いたので僕は、独りになるつもりで先にたつて降車すると、二人も続いて降りるのであつた。
 脚並豊かに歩いて行く二人は忽ち僕を追ひ越して改札口を出ると、傍らから一人の紳士に呼びかけられた。見るとA子の父親である博士であつた。
「おい/\、丁度好いところで出逢つた。一緒に銀座でも散歩しようぢやないか。」
 と博士は娘達を誘うた。と娘達は何故か、ちよつと狼狽の気色を浮べてたじろいだが、苦笑を浮べて点頭いた。
「やあ、君も……」
 その傍らに、思はずぼんやり立つてゐた僕を見出して博士は、
「娘と一緒なのかね?」と訊ねた。娘達は吃驚して僕の方を振り向いた。
「いゝえ――」と僕は慌てゝ否定した。気易い博士は緩やかな微笑を浮べて、
「差支なかつたら一緒に散歩し給へな。紹介しよう、これが僕の娘で、こちらが……」と二人を僕に引き合せた。
 僕は、落ついてゐるつもりでゐたが、いろ/\なことを思ひ出して、わけもなく慌てゝしまつた。僕は、今、執務時間であるから――などといふことを、いんぎんな調子で述べてから、それが何んなに非常識な行動であつた
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