かといふことも気づかず、切符を買つて再びプラツトホームへ引き返して行つた。途中で振り返ると、向方の三人は此方を見送つてゐた。それでも僕は、自分の奇行に気づかずに、もう一度帽子の縁に手をかけて、
「さよなら。」と挨拶した。娘達も手を振つたが、向方の三人が、あまりに意味もなくニコ/\として此方を見送つてゐるので、僕はもう一度帽子をとらうとして、不図気づくと、帽子などはかむつてゐなかつた。

     六

 僕は孤独を愛す。
 僕の世界はこの展望の一室だけで永久に事足りるであらう。僕は僕の胸のうちにあるアルキメデスの測進器に寄り、風を介して、無言の現実と親しむのである。
 A子に関する彼の記述は、この十倍あまりもあるのであつたが、そのうち最も平凡な以上の記述で中断されてゐる。あれ以来彼とA子とは親しく往来する仲になつてゐたが、何故か彼の眼鏡は方向を転じて、町端づれの裏道にある薄暗い長屋に向けられてゐた。A子の部屋と同様に手にとる如く観察出来る一室の家を見出した。
 その家にも娘がゐた。理学士のノートには、この一室の展望記が日毎に誌されてゐた。――彼は、この娘の父親とも偶然に裏町の食堂で知り合ひになり、娘とも友になつた。が、その精密な記述も、やはり、そのあたりで中断されてゐる。
 やがて、洋室の娘にも、長屋の娘にも相前後して恋人が到来した。どちらも秘かに窓を乗り越えて来る夫々に二組のロメオとジユリエツトであつた。
 それまでの間は主に海に向つて船舶の観察に余念のない彼であつたが、再び彼の眼鏡は異常な執念を含んで、夫々の娘の窓に向つてゐた。そして、眼を覆ひたくなるほどの濃厚な情景が、数限りなく彼のノートに誌し続けられてあつた。
 夫々の恋人同志が決して人目に触れぬと思つてゐる夫々の部屋で、熱烈な想ひを囁き合ふてゐる光景を、凝つと視守つてゐると、奇怪な生甲斐を覚える――と彼は或時震へながら私に告白した。
 私も、その展望台に行つて見ようか? と云ふと、彼は、うつかり飛んだ事を洩らして了つたといふやうな後悔の色を浮べ、厭に慌てゝ、「それは困る、それは迷惑だ。」と苦しさうな吃音で断つてゐた。「あの展望台は僕の仕事場であると同時に、寝室でもあり、その上僕はあの室でだけ結婚の夢を見てゐるのだから、うつかり入つて来られると何んな迷惑を蒙るかも解らない。結婚の夢は見るが僕は、おそらく真実の結婚は何時までゝも出来ないであらう……それこそ僕は夢にも望まない。あの部屋の秘密だけは君、許して、見逃して呉れ給へ。」
 妙なことを云ふ奴だ――と私は思つた。私にはその意味がさつぱり解らなかつた。ひよつとすると、どちらかの娘の恋人は彼自身なのかも知れないぞ?
 折を見て展望室に忍び込んでやらう。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文學時代」新潮社
   1931(昭和6)年7月1日発行
初出:「文學時代」新潮社
   1931(昭和6)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年1月15日作成
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