居るばかりであつた。僕には、あのA子の部屋のみが、輝ける空中楼閣であつて、「地上」で見出すA子の姿などには、何んな魅力も感じてゐない自分を知つた。――僕は、二月も前から電車の中でだけ読むために携へてゐるが未だ十頁も読んでゐない(何故なら僕はA子の部屋を眺めてゐない他の時間でも、不断にあの部屋の幻ばかりを夢見てゐて何事も手につかぬのであつた。)「花の研究」といふ小冊子をとり出して、何時になく落ついた心地で、冒頭の一節を読んでゐた。
「試みに路傍の草の一葉をとりあげて見るならば、吾等はそこに独立不撓の計らざる小さな叡智が働いてゐることを知るであらう。例へば此処に吾等が散歩に出づる時は何処でゝも常に見出す二つのしがない葡萄草がある。これは一握りの土のこぼれた不毛の片隅にでも容易に見出される野生のルーサン即ちウマゴヤシの二変種である。最も通俗の意味で二種の「雑草」である。Aは紅色の花をつけ、Bは豌豆大の小さな黄色の球をつけてゐる。彼女等が尊大振つた野草の間に匐ひ隠れてゐるのを見る際、誰が、かのシラキウスの著名なる科学者よりも遥か昔に、彼女等が自らアルキメデスのスクリウを発見して、之を飛行の術に応用してゐるのに気づいたであらうか。」などゝ読んでゐるうちに新橋駅に着いたので僕は、独りになるつもりで先にたつて降車すると、二人も続いて降りるのであつた。
 脚並豊かに歩いて行く二人は忽ち僕を追ひ越して改札口を出ると、傍らから一人の紳士に呼びかけられた。見るとA子の父親である博士であつた。
「おい/\、丁度好いところで出逢つた。一緒に銀座でも散歩しようぢやないか。」
 と博士は娘達を誘うた。と娘達は何故か、ちよつと狼狽の気色を浮べてたじろいだが、苦笑を浮べて点頭いた。
「やあ、君も……」
 その傍らに、思はずぼんやり立つてゐた僕を見出して博士は、
「娘と一緒なのかね?」と訊ねた。娘達は吃驚して僕の方を振り向いた。
「いゝえ――」と僕は慌てゝ否定した。気易い博士は緩やかな微笑を浮べて、
「差支なかつたら一緒に散歩し給へな。紹介しよう、これが僕の娘で、こちらが……」と二人を僕に引き合せた。
 僕は、落ついてゐるつもりでゐたが、いろ/\なことを思ひ出して、わけもなく慌てゝしまつた。僕は、今、執務時間であるから――などといふことを、いんぎんな調子で述べてから、それが何んなに非常識な行動であつた
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング