子は、部屋の隅に縮こまつて、この不気味な光景をぎよつとして眺めてゐた。彼は、彼女に大変気恥しい思ひをした。……「ひとつこゝで非常に凜々しい親孝行振りを発揮して律気者と見せて彼女の心に印象せしめてやらうかな?」彼は、うつかりそんな馬鹿な想ひに走つてゐた。そして彼は、あまりに小さく利己的にこだわるわが心を省みて、気持が悪くなつた。「腰抜けさむらひ!」胸のうちで、彼はそつと自分を叱ツた。
「シンイチだつてあゝ云つてゐるぢやありませんか。さア帰りませう。」
いやに俺の名前を引ツ張り出すな! ――彼はそんなに思つて迷惑した。
その時まで黙つてゐた父は突然、
「煩せエなア! 俺ア斯うなれば何と云つたつて今晩は帰らねえよ。」と怒鳴つた。それと同時に、さつきからむしやくしやしてゐた彼の心はポンと晴れやかに割れた。――親父! 無理もない/\、これから家へ帰つて大ツ平に意見されちや誰だつて堪るものか、居直れ/\――彼は心でそんな風にけしかけた。普段母の前では、何の口答へもせず我儘放題にさせておく父の態度を、彼は歯がゆく思つてゐるのだ。
母は唖然として、彼の方を向いた。彼は母の味方だと云はんばかりに、
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