[#「ふて」に傍点]くさりながら、ニユツとひよつとこ面をつくつて、周子の鼻先へ突きつけた。
「死んでしまへツ!」周子は金切声を挙げて叫ぶと、思はず彼の頬を力一杯抓りあげた。女が、さういふ形で極度に亢奮したのを見ると彼の心は全く白々しくほぐれてゐた。そして、得体の知れぬ快さを覚えた。
 彼は、もつと/\周子を怒らせてやりたくなつて、にや/\と笑ひながら、
「理屈はいりませんから、先づ第一にお金を先に返して貰はうかね、エツヘツヘ……」
「お金は返せば済むことです、私が享けた恥はどうして呉れますか?」
「御尤も/\。――だが二万円は一寸好いね。あゝ、思つても好いね……」さうふざけて云つたが、ふと彼はわれに返ると、頭は夢のやうにとりとめもなく煙つてゐるばかりだつた。
「あなたが、そんな見下げ果てた了見だからあたし独りが家中の者から馬鹿にされるんです。あなたは自分の妻といふものに対して、一体どういふ考へを持つてゐるんですか、それから先に聞かせて貰ひませう。」
「あゝ、面白い/\。」彼は、妙に花やかな気持になつて、ふらふらと立ちあがつた。
「お光、俺と一処に踊らう/\。――周子も、もう止せ/\、……ところで、梅ヶ枝の手水鉢――といふ唄を皆なで合唱しよう。」
 周子は、唄のことは知らなかつた。それで、酔つ払ひにからかふのは止めようとでも思つたらしく、赤い顔をして横を向いた。
 この機会を取り脱しては、また厄介だと悟つたお蝶は、二三人の若い芸者に三味線を引くことを命じた。「梅ヶ枝の――」ではなく、彼の知らない賑やかな囃しが始まつた。お光が気乗りのしない掛声をして、鼓を打ち、太鼓をたゝいた。
「あゝ清々といゝな! この分なら親父の二代目だぞ……」
 ふつと彼は喉が塞つた。
 彼の酔つた頭は、意久地もなく無反省に、明るく溶けてゐた。
「合掌!」わけもなく彼は、そんな気がして、思はず静かに眼を閉ぢた。
 ――父上、私は何もいりません、私はあなたの凡ての失敗を有り難く思つてゐます。
 暫くあなたに会ひませんでしたね、――この世に在ることも、無いことも、そんな区別はもう止めに仕様ぢやありませんか! どうですか、解るでせう、……少しも私は悲しいだの、寂しいだのなどゝは思ひません、愉快ぢやありませんか! 今日は、またひとつ大いに飲まうぢやありませんか。
 いつか私が、あなたから招ばれて、どうも阿母や周子たちが困つた顔をするので、それでも私は行きたくつて堪らず、とうとう彼等を偽つた私は、テニスのシヤツ一枚でラケツトを担いで、自転車に飛び乗つて、こゝに駆けつけたことさへありましたつけね、お客人や芸者達に私はあの時随分キマリの悪い思ひをしましたが、あなたは平気で、少しも笑ひませんでした。笑はないあなたを反つて私は可笑しく思つたりしましたぜ――。
 まア、そんなことはどうでもいゝんだ。あなたは貧乏になる時の私を大変心配してゐたらしいが、そんな臆病は今の私にはすつかりなくなつてゐます、……あなただつてほんとは貧乏だつたんぢやないですか! あの時分は……。
 彼は、そんな他愛もない文句を、とりとめもなく思ひ浮べたが、それはたゞ徒らに喫す煙草のやうに何の心に懸はりなく、心は白く漠然と明るく澄んでゐるばかりだつた。
 お光は、精一杯喉を振りしぼつて、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のやうな叫び声を挙げて、切りに太鼓を打ち続けた――。
 お光、お前も可愛想だよ、馬鹿/\しいからそんなに精を出すのを止めろよ、何としても俺ぢや駄目だぜ。お前達もこの先どうなつて行くのか? そしてこの先この俺もどうなつて行くのかな?……。
 彼の、もろい頭は更に感傷に走つてゐた。
 お蝶も、皆なと一処になつて三味線を引いてゐた。
 その時、隣室に寝かせてあつた彼の三才の子供が疳高く、怯えた泣声を挙げた。――不興気に、ぽかんと一座のこの光景に視入つてゐた周子は、慌てゝ隣室へ駆け込んだ。
 彼は突然、くしやツと、一見すると笑つたやうに口もとを引きつらせた。それが彼の、泣き顔なのだつた。彼はグツグツと喉を鳴らしながら、一杯涙の溜つた眼を梟のやうに視開いてゐた。そしてお蝶達が隣室に遠慮して三味線の手を止めやうとすると、彼はきゆツと唇を歪めた儘伏向いて、もつと続けろ/\といふ意味のことを、何かを戴くやうな格構に差し出した両腕を切りに上下に振り動かせて、彼女等にすゝめた。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

「阿母さんだつて、決してあなたの為にならないやうな事を考へてゐなさるものですか。第一ですね、斯んな場合にあなたが家をあけて、その上あんな場所に泊り込んでゐるなんて外聞が悪いぢやありませんか。」
「僕は、帰つてはやるが、阿母とも岡村清親とも、顔を合したつて口は利かないよ。承知だらうね。」と
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