のこと、母のこと……それだけで、キレイに片づいて了ひ何の細い感情も伴はなかつた。折角の「深刻」も「緊張」も後かたなく吹き飛んだ。
「さうだね、周子は兎も角あつちへ行つてゐた方が好いね。」
「あなたまでが、そんなことを云ふんですか。」周子は頑なゝ眼つきで、恨めしさうに彼を視詰めた。
「あゝ、さうか/\。」彼は、軽々しく点頭いて「まア、そんなことはどうでもいゝや、皆な心配するねえ、おいチビ公! 貴様ひとつ踊りを踊つて見ろ。」
雛妓をしてゐるお蝶の養女お光をつかまへて、彼は威張つた。が、彼の気持は未だ一寸小説の空想に引つ掛つてゐた。ふと「十三人」の頃のことなどを思ひ出してゐた。同人にはなつてゐたが彼だけは仲間脱れにされてゐた。
「彼奴は人生を遊戯視してゐる」とか「末梢神経の奴隷だ」とか「甘くて浮気な文学青年だ」とか「人生の暗い悩みなんてに気附かないのだらう」とか「あんな奴がどうしてわがワセダ大学の文科などに入つて来たのだらう、幼稚な夢を描いてゐるとしたら惨めなものだ」とか「カフエーにでも行つて歌でも歌つてゐればいゝんだ」とか「不真面目で、酒飲みで……」とか、そんな風に彼等から片づけられてゐたが、そして彼はそれでは一寸味気ない気もしたが、人生を遊戯視してゐるも、してゐないも、そんな理屈は考へたこともなかつたし、彼等からさう云はれると、或はさう云ふ種類の人間かな? と思はれもした。といふた処で、何とするわけにもゆかず、有耶無耶に彼等から離れて仕舞つたまでのことだ。そして、洞ろで悲しいやうな心を抱いて東京を離れた。
「あゝ。」と彼は思はず溜息を洩した。「俺は何といふ阿呆な人間だらう、何といふ頼母しくない男だらう。」そんな風に鞭打つて見ても、何ら感情が一点に集中して来なかつた。彼等の所謂「芸術的」にも「真剣」にもなつて来なかつた。
「あなた! 何を考へてゐるの?」
「いや、兎も角、お前達を伴れて東京へ行くとなると……」
「心細いの?」
「うむ……」
だが彼は、別に心細くもなかつた、と云ふてその反対のものでもなかつた。
「古い十三人のお友達だつてあるでせう、その人達の中には一人や二人は、あなたの思案にあまることは、相談になつて呉れる人だつてあるでせう、河原さんといふ人や石黒さんといふ人や……」
そんなことを云はれると、彼は急に変な心細さに襲はれて、
「お前に斯んなことを云ふのは、悪いことだが――」と口のうちに弁解しながら、
「俺は、実は彼等をあまり好んでゐないのだ。」と云つた。それは彼の、小人らしい卑しい自尊心だつた。正直な心では、寧ろ斯う云ひたかつたのだ――俺のやうな男とは、彼等の方がほんとには附き合つて呉れないのだ、普段ぴよこぴよこしてゐる罰で、斯んな時には惨めなものだ。
「そんな考へだから駄目なのよ、そこのとこだけは没くなつたお父さんは偉かつたんぢやないの。随分大勢の人が出入りしたが、誰とでも親しく、そのことをお母さんからあんなに厭がられても、誰にだつてお父さんは厭な顔なんて見せたことはないぢやありませんか。」
「死んだと思つて、讚めるな。」
「あなたの心は曲つてゐる――。お父さんが繰り反し/\云つてゐた通り、お蝶さんの方と家を持つたのは、あれは確かにお蝶さんの為ばかしぢやないのよ、確かにお客の為よ、自家《うち》だとお母さんが厭な顔をするもので……」
「俺ア、手前んとこの親父は大嫌ひだ。」
「今は、あなたのお父さんの話をしてゐるところぢやありませんか。」
「熱海へ行つてゐる時分、貴様は俺の親父の悪口ばかし云つてゐたらう、顔を見るのも厭だなんて云つたらう。」
「あなただつて云つたぢやないの。」
「黙れ、貴様の了見は下品だ――第一俺は手前の阿母が、これまた気に喰はないんだ、あのペラペラと薄つペラな唇を突き出して愚にもつかない自分好がりの文句を喋る格構は想像したゞけでも鳥膚になる――アヒル婆アだ、貴様も好く似てゐる……」
「自分の阿母さんは、どうだ。」
「…………」
お蝶と百合子が、まアまアと云つて彼をなだめたが、彼は諾かなかつた。
「貴様の親父は悪党だ! 金を返してくれ、金を返してくれ、あの紙屑爺のおかげで家では二万円も損をした。」
「うちのお父さんのおかげで、あなたのお父さんは借金することが出来たんだ、あなたのお父さんみたいな無頼漢は、小田原でさへちやんとした人は相手になんてしませんよ。」
「さうだらうよ、さういふ人のところに、巧みな甘言を用ひて附け込んだ貴様の親父は、悪漢だ。質が好くないといふものだ。手前えなんぞは何処の馬の骨だか解つたものぢやないぞ!」
初めのうちはそれ程無気になつてゐた彼ではなかつたが、ふと二万円といふ言葉が浮ぶと、父が死んで以来心の調子の狂つてゐる彼は、そんな種類の金のことなぞを耳にしても、かツと取り逆せ
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