それで?」
「それで今日来たといふわけでもないんだがね……」
 彼は、さつき使ひを頼んで、お蝶に来て呉れるように云つた。お蝶は、彼の家へ手伝ひに行つてゐるので今直ぐには来られないが、といふ返事だつた。
「東京からお客様ださうです。」
「ふゝん。」――叔父達だな、と彼は思つた。
「今日はお帰りになつた方が好いでせう、お忙しいんでせう。」
「生意気云ふな!」彼は首を振つた。女将は、失笑を堪へた。――「来られないんなら、夜でもいゝから来て貰はう、さう云つてやつておいてくれ――兎も角芸者を大勢呼んでくれ。今晩は俺は家には帰らないんだよ、誰が迎へに来ようと帰らないんだよ。阿母が迎へにでも来れば面白いがなア……」

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「五六日うちには、屹度帰つて来るから……」彼はさう云つて息を一つのんで「安心してゐていゝ。」と付け足した。
 お蝶は、黙つて点頭いた。
「僕にだつて相当の了見はあるんだから――」彼は更にさう云つた。ところが、相当の了見、そんなものは可笑しい程さつぱりと何んな形でゞも彼は持ち合せてゐなかつた。
 母や親類の者共が、どんなにお前を排斥したからとて、斯うなれば最早自分が父の代理が務まるから、決してお前の身の立たぬやうにはしない――彼は、さういふ意味のことをそれとなくお蝶に伝へたつもりなのだつた。
「若旦那ひとりが、頼みです。」お蝶は眼を伏せて微かに呟いだ。
 彼は何の分別もない癖に、そんなことを云はれると、何となく自分が出世したやうな喜びを感じて
「阿母などが何と頑張らうと、僕は既にわが家の主人公なんだからなア。」などゝ云ひながら尤もらしい顔付をして、ゆるゆると煙草の煙りを吹き出した。
「無論ですわ、奥さんが若旦那に相談をしないといふ法がありませんよ。」
 お蝶は、斯ういふ風に彼の母を非難すると彼が益々有頂天になるのを知つてゐた。お蝶や今迄父のところへ出入してゐた北原や石川などゝいふ老人を前にすると、彼は無暗と概念的に母を攻撃するのだつた。
 蔭ではそんな風にするものゝ、彼が家に帰つた時母がいろいろと――例へば、持家は悉く焼けて仕舞つたこと、地代は震災以来一つもあがらぬこと、父が莫大な負債を残して行つたこと、それを銀行に何と始末することか、方々に投資した財産を何うして回収すべきか? お前はもう東京へは出ずに家の後始末をしなければならない――といふこと……そんな相談はいろいろと彼に持ちかけるのだが、彼は何の返答もしなかつた。横を向いて、間の抜けた顔をしてゐるばかりだつた。暗い相談ばかりを選んで持ち懸けられるやうな不平を感じたりするのだ。――どんな悲しい破境に陥つても、何か其処に面白い明るさがなければならない、例へば家が破産と決つたら、整理するなんていふことは止めて、あるだけの物で各々享楽した方が増だ――父が死んで以来彼の頭は常規を脱してゐるに違ひない、そんな幼稚な享楽派の文学青年でもが云ひさうなことを、稍ともすれば心から考へたりするのだつた。
 つい此間も、母は彼に斯んな事を云つた。
「この先お前はひとりで、暮しが出来ると思つてゐるの?」
「……」彼は出来るとは思はなかつたから黙つてゐた。そんな抽象的な(彼は、面白くない話になると直ぐに抽象的だなどゝ決めて、手前勝手な憂鬱を感ずるのが癖だつた。)……そんな女々しい予想に怯かされるなんて恥とする――母の言葉でほんとに彼は怯かされたもので、虚勢を示したのだ。
「出来ると思ふんなら、東京へ出るのもいゝでせう、だが私にはそれは信じられない。お父さんはお前にこそ云はなかつただらうが、お前は学校を卒業してから、もう何年になると思ふ、学校を出た年には新聞社へ務めた、その時だつて学生時分に比べて月々三倍も余計なお金を取寄せた、その後何年か家にごろ/\してゐたが……」
「止して下さい、止して下さい、何をして来やうと、それでやつて来られたんだから好いぢやありませんか……」家のものは凡て俺の物なのだ、母親などが女の癖に、既に一人前の男に生長した長男に向つて、兎や角云ふのは非礼なことだ――彼はさういふ図太い了見を示した。その種の返答は、父の在生中は母に向つておくびにも云へない彼だつた。今となつたら少しはこの俺を尊敬したら好いだらう、第一実印をこの俺に渡さないといふのからして間違つてゐる……彼は、そんなに思つたりした。
「此頃はまた東京だ、東京と聞くとゾツとする、女房や子供は家に置きツ放しで、何をしてゐるんだか解つたものぢやない……」
 母が一寸無気になつて、さう云ふと、彼は意地の悪い笑ひを浮べた。――勿論、何をしてゐるか解つたものぢやないよ、東京へ行けば独りでのうのう[#「のうのう」に傍点]と出たら目な享楽に耽つてゐるんだぞ。――彼は、母を脅迫したつもりなのだ。地震で
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