物々しく腕組をして何となく点頭くやうに母の視線をうけた。
「帰つてくれ/\、手前えの顔を見るのも厭だア!」父の声は上づツてゐた。母に乱暴なことを云つたことのない父だつたから、余程の決心の上で無気になつたらしい、言葉が止絶れるとその厚い唇が性急に震えてゐた。自家でなら、もつと/\さんざんにやられても黙つてゐる父なのに、やつぱり周囲の眼を慮つて斯んなに逆《のぼ》せたのか! 彼はそんなに思つて一寸父を軽蔑した。
「お黙りなさい。」母は落ついて口を切つた。「私はあなたに罵られるやうな悪いことはしません。自分勝手なことばかしゝてゐて人を馬鹿呼ばゝりをするとは何事です。云ふことがあるんなら、第一あたり前の言葉で話して下さい。」
「ぶん殴るぞツ!」
「言語道断だ!」さう云つて母はセヽラ笑つた。
「面を見るのも厭だア、あゝ厭だ/\。」父はさう叫んでドンと卓を叩いた。
「大旦那! 何を云つてゐらつしやるの!」見るに見兼ねて初めて女将が口を切つた。「そりや奥さんが斯ういふ処へいらつしやるのは悪いでせうが……」
その声を耳にすると母は直ぐに、眼眦を鋭くした。女将はいくらか亢奮して、頓着なく続けた。おそらく父の味方だつたに違ひない。「奥さんや若旦那の心持にもなつてあげなさい。――」
彼は思はず首を縮めた。そして、怖ろしい顰ツ面をしてゐるものゝ何となく間の抜けてゐる父の横顔を、そつと偸み見た。――「阿父さんは芸者などに大旦那/\なんて煽てられてイヽ[#「イヽ」に傍点]気になつてゐるんですよ。」いつか彼は母にそんな告げ口をして、母を厭がらせてやつたこともあつた。
女将にさう云はれると、さすがに父も吾に返つて気拙さうに苦笑した。で一寸静かな調子になつて、
「貴様が斯んなところに出しやばるといふ法がないんだ。――折角の賢夫人も笑はれ者になつてしまふぞ。」
「僕が悪かつたんだ。僕が阿母さんを無理に此処に伴れて来たんだ。」と彼は云つた。
「この年になつて何が楽しみで斯んなところへ遊びになんて来るものか。」父は彼には見向かず、母に稍々ねんごろに話した。その種のことは折々父が沁々といふことで、それは彼には嘘とは思はれなかつた。尤も父の喋ることは、どんな馬鹿/\しいことでも、それはそれなりに感情を、彼の如く偽つたりすることはないらしい――彼は常々父をさう思つてゐた。が、彼は、露悪家ではない(それ程気の利いた心の働きを持つてゐる彼ではない。)けれど、父のそんな性質を好きがつたり、尊敬したりする程の孝行な悴ではなかつた。父が若少し続けようとすると、
「そんなことは、もう聞きたくもありません。」
母は、語尾に傍から見ると、実に異様な力を込めて云ひ放つた。……「どうせ親がろく[#「ろく」に傍点]でもないんだから、子供だつて……」
彼は、アツ[#「アツ」に傍点]と思つた。――ひとり自分はいゝ子になつて、具合よく母を瞞著してゐたつもりだつたら、やつぱり母にはこの俺の心根が見へ透いてゐたのか!
さうは気附いたものゝ浅猿しい彼は、憤ツとして口をとがらせた。父は、その彼の心の動きを悟つたらしく、寂しさうな苦笑を浮べて、貴様がこゝで阿母に逆ふのは浅はかの至りだ――といふ困惑の色を現した。
「帰ると仕ようかね。」父はさう云つて、冷くなつた盃をグツと飲みほした。
彼は、後架にたつた。袂で顔を圧へたお蝶が、廊下の、庭に面した薄暗い窓の隅に凝ツとたゞずんでゐた。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「僕がかうやつて、……」彼は、軽い冗談でも云つたつもりで、ひようきんに胸を張り出した。
「どうだらう? 似合ふかしら? 似合はないだらうな。修業をすればなれ[#「なれ」に傍点]るかね? だが何としても親父のやうに、事業にかこつけることが出来ないのは、弱つたなア!」
冗談にせよ、父親を引合ひに出したのを、女将は一寸あきれたらしかつた。彼は、自分が如何程武張つて、そんなことを云つたところで何の自分にそんな身柄のないことを知り抜いてゐるのだが、独りで斯ういふ処へ出入することが、自分にとつても不自然な気持を起させない位ひにしたかつたのだ。
「ハツハツハ……五十三で死んでしまつては親父も気の毒には気の毒だが、それもまア好いだらうさ、あと十年生きたところで僕が親父を嬉しがらせることがあるとは思へない。……尤もさういふ考へ方はあまり好くはないが――」変にすらすらと彼は口を切つたが、終りに近づくと愚図/\と口のうちで、ごまかしてしまつた。
「今でもトン子さんのことは、思つてゐらつしやるの?」
「あゝ思つてゐるね、大いに思つてゐるね。」
それ程でもなかつたが彼は、やけにはつきりした声を挙げた。だが、さういふと同時にふつと周子のことが浮んだ。結婚してもう四年になるか! わけもなくさう思つた。
「
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