しだつてもう家には帰れないんだから、あなたが東京へ帰るんなら一処に伴れてつて下さい。」周子は、彼とお蝶との話に気づいて呼びかけた。周子は、彼の味方になつて叔父と母の前で争ひをしたのだといふことである。それが為に彼が内心どんな迷惑を感じてゐるか、彼女は知らなかつた。
「東京へいらつしやる、いらつしやらないは別として、若い奥さんまでが此処に来てしまつてゐるのは好くありませんよ。」
「何だか私たちが、蔭の糸を引いてゐるやうにお宅の方に思はれる気がします。」
女将とお蝶は、迷惑がつてさう云つた。周子は苦笑ひしてゐるばかりだつた。彼は、憎々しく周子の様子を打ち眺めた。
周子が来て以来、夜になつても賑やかな遊びも、トン子の顔を見るわけにもゆかないのは彼は不服だつたが、斯んな風な状態で周子達と共々此処に引寵つてゐるのも「一寸アブノルマルな感じがして悪くもない。」などと思つた。嘗て「真剣」とか「緊張」とか「深刻」とかいふ文学的熟語に当てはまるやうな経験を持つたことのない彼は、一寸夢見心地になつて自分の現在の境遇を客観して見たりした。――父の急死から一家の気分が支離滅裂になり、長男が慌てふためくこと、彼の細君が露骨に彼の母に反抗し始めたこと、母は自分の兄弟達と相計つて愚かな長男を排斥して善良な弟を擁立しようとすること、長男が嫉妬心を起すこと、そして彼は父の馴染だつたお茶屋に細君と共々滞留して、お蝶達を集めて不平を鳴してゐること――そんなことを思つて見ると彼は、今更のやうに自分が「非常」な境遇に面接してゐるやうな気がするのだつた。そして小説とか芝居とかに見る「悩める主人公」に自らを見立てゝ、自ら「深刻」なつもりのヒーローになつて安価な感情を煽りたてた。彼は、ワセダ大学に在学当時、クラスの文芸同人雑誌に加つたことがあつた。そして彼等の議論に接して怖れを抱いたことがあつた。彼等は非常に「真剣」だつた。口を開けば必ず「芸術」と叫び「魂の悩み」を歌ひ、「血みどろに生きる」ことを誓つた。「十三人」といふ名前の雑誌だつた。彼は、去年一年自家を追はれて熱海に暮した時、退屈のあまり「十三人」の頃の自分のことを長く書き綴つたことなどを、ふと思ひ出した。……彼は、今の事件を小説的に書くことを考へて見た。すると彼の気持は、おどけて散乱してしまつた。事件などには、何の興味も持てなかつた。父の死、破産、長男
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