らない――といふこと……そんな相談はいろいろと彼に持ちかけるのだが、彼は何の返答もしなかつた。横を向いて、間の抜けた顔をしてゐるばかりだつた。暗い相談ばかりを選んで持ち懸けられるやうな不平を感じたりするのだ。――どんな悲しい破境に陥つても、何か其処に面白い明るさがなければならない、例へば家が破産と決つたら、整理するなんていふことは止めて、あるだけの物で各々享楽した方が増だ――父が死んで以来彼の頭は常規を脱してゐるに違ひない、そんな幼稚な享楽派の文学青年でもが云ひさうなことを、稍ともすれば心から考へたりするのだつた。
つい此間も、母は彼に斯んな事を云つた。
「この先お前はひとりで、暮しが出来ると思つてゐるの?」
「……」彼は出来るとは思はなかつたから黙つてゐた。そんな抽象的な(彼は、面白くない話になると直ぐに抽象的だなどゝ決めて、手前勝手な憂鬱を感ずるのが癖だつた。)……そんな女々しい予想に怯かされるなんて恥とする――母の言葉でほんとに彼は怯かされたもので、虚勢を示したのだ。
「出来ると思ふんなら、東京へ出るのもいゝでせう、だが私にはそれは信じられない。お父さんはお前にこそ云はなかつただらうが、お前は学校を卒業してから、もう何年になると思ふ、学校を出た年には新聞社へ務めた、その時だつて学生時分に比べて月々三倍も余計なお金を取寄せた、その後何年か家にごろ/\してゐたが……」
「止して下さい、止して下さい、何をして来やうと、それでやつて来られたんだから好いぢやありませんか……」家のものは凡て俺の物なのだ、母親などが女の癖に、既に一人前の男に生長した長男に向つて、兎や角云ふのは非礼なことだ――彼はさういふ図太い了見を示した。その種の返答は、父の在生中は母に向つておくびにも云へない彼だつた。今となつたら少しはこの俺を尊敬したら好いだらう、第一実印をこの俺に渡さないといふのからして間違つてゐる……彼は、そんなに思つたりした。
「此頃はまた東京だ、東京と聞くとゾツとする、女房や子供は家に置きツ放しで、何をしてゐるんだか解つたものぢやない……」
母が一寸無気になつて、さう云ふと、彼は意地の悪い笑ひを浮べた。――勿論、何をしてゐるか解つたものぢやないよ、東京へ行けば独りでのうのう[#「のうのう」に傍点]と出たら目な享楽に耽つてゐるんだぞ。――彼は、母を脅迫したつもりなのだ。地震で
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