あつた。私には父の態度が、祖父母や母の古風なミリタリズムの教育風とは全くその趣きを異にして、突ぴよう子もなく自由気なのが余程の驚きであつた。
「何ダイ、オ前ニハ女学生ノ友達ガヒトリモヰナイナンテ、随分気ガ利カネエハナシダナ。早速俺ノ友達ノ娘ヲ紹介シテヤロウ。素晴シイ別嬪ダゾ。」
 彼は斯んなことを云つて私の肩を叩いたりした。尤も彼と私の会話は、自家の中では英語ばかりだつた。私はあの如く余程成長してから始めて父親の姿に接し、元来はにかみやであつた所為か容易に日本語では即座に「お父サン」などゝ云つて親しめなかつた。それが父親に会つて以来は益々ペラペラと外国語を喋舌べれるようになると不思議と、何うしても日本語では云ひ憎い感情でも思ひのたけでも難なく滑り出すのが吾ながら異様だつた。
「ソレハ甚ダ有リガタウ、私ノ親愛ナル父サンヨ、私ハ従来、男女七歳ニシテ席ヲ同ジクスベカラズトイフ道徳的観念ノ中ニ育テラレ、ソレハソレトシテはんさむナ掟トシテ反抗心ナド抱キハシマセンガ、近頃特ニ思考シテ見レバ、ソレハ伸ビヨウトスル青年ノ心ニ稍トモスレバ Blue−Devil《ゆううつ》 ノ陰影ヲ宿ス源因ニモナルト思ツタ。私ノ中学ノ幾多ノ先輩ガ窮屈極マル――ソレハ日露戦争時代ノ軍事教育ヲ旨トシテヰル老曹長ナル学生監《チユウタア》ノ圧迫ガ酷イノデアルタメ――学窓ヲ放タレルト同時ニ急ニ不思議ナ紳士《おとな》ニナツテ数々ノすきやんだるヲ遺シテヰルノヲ見テモ実ニ寒心ニ堪ヘン次第デアリマス。」
「オヽ、頼モシキ思想ノ持主ヨ、新日本ノ後継者ハ立派ニ新シイ騎士道ヲ樹立セナケレバナランノダ、女学生ト附キ合ツテ Girl−shy(助平心)ヲ起スヨウナ習慣ハ少年ノウチカラ彼女等トノ交遊ニヨツテ振リ棄テルヨウニシナケレバナランノダ。」
「非常ニ私ハ女ノ友達ガ欲シイヨ。」
 こんなことを若しも日本語で喋舌つたならば、即座に阿母は薙刀でも持出して、そこへ直れとでも叫ぶだらう――などと私達は笑つた。大体私と彼が、そんな会話を用ひるのを阿母は眉をひそめたが、それは単に語学の練習だと云つて納得させた。私も折々自分の喋舌ることを秘かに自分の胸に和訳して見ると、気狂ひにでもならなければ到底口にすることも適はぬ気障つぽさだと首をすくめたが、そんな反省などは喋舌つてゐる限りは何も残らなかつた。間もなく横浜からナタリーの一家などが遊びに来るようになつたりして、弥々私はお喋舌りになり、自転車をそろへてピクニツクに赴いたり、老若入れ交つてテニスに耽つたりして、間もなく中学を終へようとする頃になると、枳殻の生垣にとり巻かれた屋敷の隅々に測量の杭などが打たれ出した。熱海線の敷設がいよ/\開始されたのである。土地の売買する周旋人見たいな人物が、日毎におし寄せて阿父をとらへて、
「大したもんですな……」
 と云つた。彼の卓子の上からは稍ともすればそれまで愛読してゐた旅行小説の叢書や鳥類剥製の道具やらが影をひそめて、測量図とか法律の本で一杯になつた。それと同時に彼の面上からは、今迄私を相手に冒険談などを聴かせて夜の更けるのも忘れた折の鷹揚な影も消え失せて、訪客ばかりを相手に厭に、深刻気《グルウミイ》な眼を据えて、万円とか幾十万円とかといふ話題に熱を吹いてゐた。つまり昔は一銭五厘位ひで買つたものであり今迄は売るともなれば二円でも三円でも買手もなかつたといふ屋敷や、真鶴の田畑や、熱海の山林などが、一坪の価が百円、二百円と、日増しに暴騰するのであつた。
「僕は決して手離しませんよ。自分としてのいろ/\の計画があるんだから……」
 別の人からの注意で、それらの土地をこのまゝ十年も持ちつゞけて、やがて次々の駅に停車場が出来るとなれば、労なくして一躍大した富豪になるであらうとか、勧業銀行から金を借りて熱海海岸の埋立事業を起さうとか、其他枚挙にも遑もない計画が持ち込まれてゐるので、いろ/\な買手が現れても決してその手には乗らなかつた。
「いよ/\、停車場が出来るとなれば――」とか「小田原の家の竹藪の真ん中が、ステーシヨンの正面になると決つた。」とか「熱海まで延びて、更にトンネルが抜ける段になると……」とか、さういふ類ひの彼の興奮の声を私達は何百辺聞かされたことであらう。そして、書類でふくらんだ弁護士でもが持ちさうな手鞄を抱へて、何処へ行くのか知らないが俥ばかりを乗り廻した。往来で出遇つた時など、思はず私が以前のやうに手をあげて、ハロウ……と呼びかけても、今では彼はニコリともせず棒切れでも呑んでゐる見たいにしやちこ張つて、まん丸な眼玉を極めて真面目さうにぎよろりと輝やかせてゐるだけだつた。私は、決して故意に滑稽なる形容辞を弄するわけではない。余程真に迫つた矛盾の痛手を覚えさせられぬ限り、誰が親愛なる父の姿を漫画に喩える態の悲惨を敢
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング