ちに自転車用のアセチリン・ランプを用意して、咲見町の崖ふちにあつた終点に来るのであつた。どうやら阿父の悪影響らしく、Nに限つては“Girl−shy《はにかみ》”は覚えなかつた代り、いつの間にかその自由さが、単なる友情を超えたおもしろさに移つてゐるのを秘かに意識せずには居られなかつた。私は未だ宿屋の番頭なども繰り込まぬ人気のない待合所のベンチに腰を降して「新進作家叢書」とか「ウエルテル文庫」などゝいふ小型の和訳本を読んだ。やがて麦畑の向方から麦笛のやうな汽笛が響き、炭坑のトロツコの如くに汽缶車の向きをあべこべにつけた汽車がのろ/\と這入つて来ると、忽ち彼女は先頭を切つて車から飛び降りた。すると、出迎への旅館の連中が向方と私を見くらべて、わらふのであつた。――といふのは、私を見出した彼女は、忽ち飛び込むやうに駆け寄つて来て、鳥のやうに朗らかな感投詞を叫びながら両腕を私の肩に載せて、頬つぺたに接吻をおくるのであつた。その光景が間もなく彼等の好奇の眼を誘つたのである。それ故私は、彼女の姿を見出すと同時に合図の腕をあげて、素早く崖径を降つて、海辺へ向ふ松林へ逃れるのであつた。段畑と入れ交つた繁みのスロウプは滑らかな芝に覆はれてゐた。――そんな「劇的」な動作に私は到底人中では堪えられなかつたのである。
「バカヤロウ――ワガハイの靴のことも考へないで、そんなにはやくかくれては、ボクは転びさうではないか。」
彼女はほんとうに怒つたような声を挙げながら、危ふ気な脚どりで石段を降りた。ランプの光りを投げると、未だ穿き慣れない踵の高い靴が臆劫さうに段々を注意深く踏み応えてゐた。(これらの、とるに足りない印象が時経れば経る程鮮かに残つてゐた。どうやら熱海線の長い思ひ出の中の、私にとつては得難きアルペンの花であつたような気がするのである。)
もう梅も散つて、そろ/\山桜の花が開きさうな晩、私達は月あかりの芝生で土産の弁当籠をあけて家へ向ふのも忘れた。
「ミヤニニタウシロスガタ――といふのは何んな意味なの。」
宮に似たうしろ姿や春の月
と私が記念碑の文字を訓むと、彼女は即座にノートをとり出して質問などした。
「スプリング・ムーンが、別れた恋人のかたちに似てゐるといふセンチメントをうたつたエレヂイである。」
「月が恋人のかたちに似てゐるといふのが、どうしてエレヂイなの?」
彼女は神妙に首
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