その「奇智に富める工夫」を絶賞し、諸名士の感激談までを併載した。それを読んだ婆さんと阿母は声をあげて、嬉し涙に掻きくれ、山高シヤツポを何故か稍あみだ風にかむり、厳然と構えて眼を据えてゐるが、軽く口腔をあけつ放しにしてゐるのが何だか折角の威厳をそいでゐるかのやうなお爺さんの、今はもう大型の額ぶちに収まつた写真となつて物をも言はぬ肖像の下に、三人は頭をならべて平伏し、誉れに富んだ報告祭を営んだ。
「おぢい様が御丈夫だつたら……」
 婆さんはそればかりを繰り返した。
「これぢや、登りでも下りでも歩く心配もなけれや、後おしも要らず安心だね。」
 私たちは打ちそろつて梅見へ出かけた。ところが真鶴を過ぎるころになると、激しい煤煙と振動のために婆さんも阿母も攪乱を起した。「軽便」の煙突は釜に不釣合に細長くて頂きに網をかむせた盥のやうな恰好のものが載つてゐるので、暴風などにあたつて激しく揺れ過ぎると、中途からポツキリと折れることがあつた。しかし私は、その機関車の姿を指差して、
「ねえ、母さん――スチブンソンがつくつた汽車の画に似てゐますね。」
 と好奇心の眼をそばだてた。
「岩吉は機関手になる試験を受けて、落第したんだつてさ。」
 と母はわらつた。
 やがて婆さんは、あれが出来たから今度こそは何時でも気軽に熱海に行けると悦んでゐたのに、あの煙突と笛の音を思ふと体がすくんでしまふ――と滾しはぢめた。車体の小さいのに比べて、走り出すと恰で馬力《トラツク》が駆け出したかのやうな地響きを挙げ、蒸汽の音は駄馬の吐息のやうに物凄かつた。この物音を聞くと沿道の人々は「それツ、軽便が来たツ」とばかりに駆け出して、物珍し気に見物した。すると運転手は益々得意になつて要もないのに激しい汽笛を鳴しつゞけた。さういふ物見高さに煽られて多くの運転手達は女道楽に身を持ち崩した。
 私が中学二年の春休みに、熱海から祖母を迎へ返すと、途中で三度も手をひいて降りなければならない程の状態となり、家に戻つてからは寝たきりになつた。私はその枕元で昼となく夜となく、アメリカの父から来る新聞や手紙を読み聞せた。私は六歳の時からカトリツク教会のイギリス人に伴いて読み書きを習つてゐたので、もうその頃は外国からの少年雑誌《セントニコラス》や新聞の日曜漫画など、即座に日本語に移しながら朗読が出来た。人気者のハツピー・フリガンのことを私
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