、今にも出かけて行つて呑気な仲間に加はらうと思ふてゐた矢先であつたにも関はらず、思はずそんな真似をして後悔した。――母は、そつと自分の背中に丹前をかけて行つた。
そのうちに自分は、ほんとうに眠つてしまつた。雛が行列をつくつて、泉水の傍の井戸傍に水を呑みに来る夢を見た。これは自分には始めての夢ではなかつた。子供時分にも同じ夢を見たが、妙にはつきりと記憶に残つてゐるものだつた。
三月九日
自分は、午後の三時頃まで眠つてしまつた。一家の者は皆墓参りを済ませて帰つてゐた。父の三年忌日である。
自分は、待つてゐた妻と共に歩いて墓参りに行つた。
お寺で、お園とお蝶に遇つた。
*
「三月××日」
何の為めか知らないが彼は、以上のやうな事を七日からこの日までかゝつて、郷里の家で徹夜をしながら、おそろしく苦んで書いた。
彼はアメリカのAから手紙を受け取つた。Aは彼の東京の居住を不安に思つて郷里にあてて寄したのである。彼が、ずつと以前反古にした紙片のうちには次のやうな個所がある。
「この間私は米国へ行く友達のAを東京駅で送つた。アメリカへ行く友達――さういふことに私は或る家庭的の事情から愚かな感傷を持たされた。理由は省くが、普通の見送り人ではない一種妙な感情家にならされた。
Aは初めての旅だつた。それが決つて以来彼は日夜間断なく、悪く花やかに胸の鼓動が高くて苛々と、箒が投げ出されてゐる座敷に坐つてゐるやうに、胸先にハタキをかけられてゐるやうに――彼は、そんな形容をして変に悲しく落つかないと屡々私に告げた。何だかこんな気持は君にだけしか云へないと、彼は酔つては告げた。全く私は、病ひとさへ思はれる位ひな彼の落ちつきのないのにも、感傷にも、秘かな幾度かの送別宴にも、そして彼の酒の上での涙にも、私は、何らの恥らひもなく、痛ましく明るく行動を共にした。どつちが行く者か? 送る者か? 私としても終ひにはそんな区別を忘れてしまつた。
「君の気持が俺と一処に船に乗り、彼地に着き、さう思ふと何んだか薄気味悪い。」
或晩彼は斯んなことを云つて私の顔を眺めた。あの間こそ私が奇妙な病人であつたかも知れない。始終家庭にばかりごろごろしてゐた私が急に熱心な外出家になつたので終には妻が不安な顔をした。
出帆の光景といふものは私は一度も見たことがないので横浜まで行つて見よ
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング