快をもつて、所望するのであつた。
「あんたは何うしたつてえのよ。変な声出すの止して頂戴よ、馬鹿々々しい。」
「斯ういふことが、流行つてゐるのを、知らないのか?」
 私は、仰山なあきれ顔を示した。――「今度、この屋上にベビー・ゴルフが出来てゐるから、署名が済んだら行つて見ない?」
「あゝ、妾、歯が痛くなつてしまつた。何うしよう?」
 テル子は箸を投げ出して、顔を顰めた。
「ぢや此処の歯科室に案内するからサインして呉れ。」
「此処の歯科室ツて何なの?」
「知らないだらう。友達の兄さんが其処に務めてゐるんで僕は、此間うちずつと通つてゐたんだよ。」
「ほう! デパートに歯医者があるなんて、滑稽だわね。」
 負け惜みを云つてゐるテル子を私は得意になつて案内した。デパートの歯科室は外国にも例がないらしい――と私は友達の兄さんである林さんから訊いたりした。
 私は、その六階の窓から顔を出して、河岸ふちの平べつたい赤煉瓦の製麻会社の建物と日本橋とだけが、地震前の儘である――などと思つた。あの赤煉瓦の建物が出来た当座、テル子と伴れ立つて西河岸の縁日に散歩に来た時、側面から見るのと、橋の上から見るのとでは、余りにあつけ[#「あつけ」に傍点]ない格構ではないか、大風が吹いたら何うするつもりだらう――などと云つて嗤つたことを思ひ出したが。
 テル子のサインを求めるための頁を私は開いて、治療の済むのを待つてゐた。その頁のゲーテの詩抄は、
「今はたゞ朧に見ゆるのみ、青春の夢、失ひたる恋の悩み、いと深き狭霧の彼方――」とあつた。笑止――。三原商店のテル女は、当時近隣の評判娘で、私の悪友であつた。

     三

 テル子を待つ間に私は、一階に降り、その巨大な昇降機が七階までの一往復に要する時間を験べたいので、そのまゝ乗り続けてゐたかつたのであるが挙動不訝を疑はれさうなので、その辺を上の空で一回りしてから再び行列に伍して箱の中へ入り、凝つと腕時計を睨めてゐた。私は歯科室に通ふ頃験べたのであるが、この昇降機は六十の馬力を持ち満員にすると九十名までは登載せしめ得る事が出来た。私は、はじめ昇降機《リフト》の速力などといふものは登載物の有無に関はりはないものかと思つてゐたのであるが、詳さに験べて見ると、その軽重に依つて微妙な変化のあることを見出した。五階まで直行、そして六階に停り、七階まで或時は一分三十秒を要し、また一分十秒、さうかと思ふとたつた四十秒のこともあつた。四十秒の時は二三人の乗員であつた。
 さつきの下降の時は一分四十秒を費し、今度の上昇は恰度一分であつた。私は、完全の空と満の場合の差違を知りたかつたが、いつか一時間あまりも夕暮時にその機会を窺つたが空の場合に出会ふことは出来なかつた。私は、斯んな大きなリフトが人二三の軽重に依つて速力の影響を見るのに、つまらぬ親しみを覚へたりしたのである。この昇降機は三十分のうちに約十回の往復をする。
 そんなことを思つて私が七階の昇降口を何時までも凝つと視詰めてゐた時、私の傍で恰度私と同じやうに腕を組み眼を据て同じ角度に向つて深い思索に陥つてゐる怪し気な紳士が居ることに気づいた。そして彼は私が気づいた事も知らずに益々熱心に両眼を輝かせ、時々慎重に指折して何事かを数へたり、微かに点頭いたり、太い溜息を衝いたりしてゐるかのやうであつた。客が降りて来ると片隅に退き、降つて行くと、サツと入口の扉の所へ駆け寄つて、少しく大業に形容すると、石の落ちて行く感度に耳を傾ける芝居の丸橋忠弥見たいに首を傾げて、ギヨロリと上眼をつかつたまゝ(昇降機が降つた間際にはその辺に人影がなくなる瞬間である。)凝つと、降つて行く箱に呼吸を合せてゐるらしい不思議な深呼吸を続けてゐるのだ。私は、昇降機よりも反つて彼の挙動に興味が涌いたので、ずつと後方に退いて秘そかに彼の運動を注意してゐた。下降客が戸口に集り、1・2・3・4・5――と昇降機が再び針を回して昇つて来ると彼は、指針が7に近づくまで乗客のやうにそれを視詰めてゐるが、いざ到着すると素早く片方に身を退けて、下降の客が乗り切るまでのほんの束の間、巧に空呆けて白を切り、さて間もなく下降の段になると、またしても丸橋忠弥に早変りである。
 若しかすると自分も先程《さつき》は彼と似たやうな芝居を演じてゐたのかも知れない――斯んなに群衆の出入が夥しく、凡そ足跡の絶間は十秒の間もなさゝうに思へるのであるが、斯んな処で斯んな風に敏活に呼吸を窺つて、身を換してゐれば、あんな奇体な動作を繰り反してゐても誰の眼にも触れずに済むものか、斯んな合間でこそ反つて大胆な犯罪などが行はれるといふものか、実に雑鬧の流れの合間には、束の間のエア・ポケツト見たいな白々しい間隙が生じてゐるものだ――などと思ふと私は不図、先達て吾々の総理大
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