のを、ちつとも気づかなかつたでせう。ところが、いくら夢中になつて吹いても、さつぱり鳴らないぢやないの、力一杯吹いても……」
百合子は滝本のコルネツトを携へて来て、何うしたら鳴るのか? と質問した。
「吹竹を吹く見たいに幾ら力一杯吹いたつて鳴りはしないよ、斯う唇を絞《しぼ》めて、先に唇を鳴しながら――」
滝本は、一音階を急速に吹き鳴した。
「あゝ残念だつた。悸《おど》し損つてしまつた。」
あの時、突然耳もとで、斯んなものを吹かれたら自分も堀口も、思はず飛び上つたであらう、薄暗がりの中で――と滝本も、何となく残念に思つた。
海辺に向ふ松林の中を、二人は微風に吹れながら歩いてゐた。百合子が、何か唱歌でも吹いて見ないか? と云ふので、滝本は、オーバ・ゼ・ウエイヴ・ワルツなどを、調子高く吹奏した。
「此方を向いてゐても、家の方まで聞えるかしら?」
「風があるから聞えるだらう。」
「堀口さんにも聞へたでせうね。それにしても守夫さんは、自身の仕事の他では、それ[#「それ」に傍点]が一番得意?」
「中学生のうちからだもの。」
「東京へ行つて仕事が見つからなかつたら、ダンス・ホールのバンドに入つたつて生活出来さうね。」
「自信はあるな。」
百合子を相手にしてゐると滝本は、悩みも不安も綺麗に拭はれて行く爽快さを覚へた。松林を脱けて浜辺へ出ると、未だ、あたりは明るかつた。
「あら/\!」
と、滝本の口を見て百合子は、笑ひながら顔を顰めた。「妾の口紅が、一杯そこに喰ツついてゐるわよ。――妾が吹いたのをそのまゝ使つたもので!」
「百合さんは紅なんてつけてゐたの? 随分お洒落になつたんだな。」
滝本は、手の甲で唇を撫でながら何気なく苦笑したが、不図、胸の震えを感じた。
三
翌朝滝本は、堀口からの電話で起された。
「森さんの娘さん――いや/\、昨日の君の家のお客様は昨夜お帰りになりましたか?」
「百合子さんなら、居るよ。」
それが何うしたのか? と云はんばかりに滝本は云ひ返した。
「森さんの方から、其方に百合子さんを探しに行つた人があつたでせう?」
「誰も来ない――だけど、何のために貴方は、そんなことを私に訊くんです?」
「ふ――ん玄関に錠を降し放しにして置いて、居留守をつかつてゐれば世話はありませんね。仲々、何うして、用意周到だよ。」
堀口は、厭味な嗤ひを附け足した。
「何だつて!」
滝本は、思はず怒鳴り返した。――「失敬なことを云ふなツ!」
「凄い腕だね。たうとう娘を誘惑してしまつて……」
「馬鹿ツ!」
滝本は、震へて、喉が塞《つま》つた。
「森さんでは捜索願ひを出すと云つてゐるぞ――」
「此処にゐるのが解つてゐて捜索も何もないぢやないか――」
「つかまらないうちに逃げたら何うかね。……君の母さんが、其家は逢引の宿ぢやないから、出て行つて貰ひたいと云つてるよ。」
「……俺の勝手だ。」
滝本は、怒りのために全身が震へて、今にも昏倒しさうであつた。
「登記所へ行つて見て来ると好いんだ、其家が誰のものか直ぐ解るよ。出て行け。」
「何うしても出て行かなかつたら、何うしようといふんだね。」
滝本は、不思議な落着を覚へた。
「悪党――女蕩し!」
「…………」
滝本は、言葉を失つた。
――「妾が出るわ。」
何時の間にか滝本の傍らで百合子が、この争ひを聞いてゐた。百合子は滝本の書斎の鍵を持つてゐたが、その手で受話機を引きたくつた。
「もし/\、妾、百合子ですが――」
と静かに呼びかけた。
「堀口さんですか、昨日は失礼しました。……えゝ、妾、泊つたわよ。今日も明日も泊るつもりですわよ。」
滝本は傍に居られないで、座敷に戻ると、家中を彼方此方と無意味に歩き廻つてゐた。書斎の扉《ドア》は開け放しになつて、ベツドの毛布が床に半分落ちてゐた。――百合子がベツドの方が望ましいと前の晩云つたので、滝本は鍵を渡して、あけ渡したのであつた。そして自分は、留守居の年寄に傍に来て貰つて、ずつと離れた部屋で寝た程、余計な神経をつかつてゐるではないか。
「妾の父が見えたんですツて――ぢや、恰度好いわ、妾は、守夫さんと結婚する意志がある――といふことを云つて下すつても関ひませんわ。えゝ、でも、二三年先のことになるかも知れないけど……そんなことは此方の自由ですもの……えゝ、えゝ、これだけの話でもう充分よ。」
それで、百合子は電話を断《き》つた。――と彼女は、次の部屋でまごまごしてゐる滝本の傍らを、パジヤマの袖で顔を覆ふようにして、眼も呉れずに駆け抜けた。そして滝本の書斎へ――彼女の寝室へ、慌しく駆け込んでしまつた。
電話の、百合子の終ひの言葉は滝本には凡そ思ひも寄らぬものだつた。信じて好いのかしら――と疑はずには居られなかつた。仲裁のための、前の日のコルネツトの場合と同じような百合子の「ナンセンス嗤ひ」ぢやないのかしら――とも思つた。
滝本は、そつと百合子の寝室の扉の前に来て、おして見ると、中から鍵が降りてゐた。
「百合子さん。」
と呼んで見たが返事もしない。
仕方がなく滝本が、庭をまはつて見ると、窓は閉つてゐたがカーテンに隙間があつたので、気合《けはい》を窺ふと、百合子は、ベツドに突ツ伏してゐた。床に膝を突いて――。そして、背中全体が切なさゝうに震へながら波打つてゐた。嗤つてゐるのか、咽び泣いてゐるのか? 滝本には判別し憎かつた。
四
「百合子さん――」
もう一度滝本は呼んで見たが、百合子は何時までも突ツ伏しつゞけたまゝ顔をあげようとしなかつた。
……だが、百合子が声に応じて顔をあげたなら、一体自分は何んな言葉をかけるつもりなんだらう――不図左う気づくと、余程理性を欠いたらしい自分のたつた今の挙動に後悔を知つて、そのまゝ窓下を離れた。
何時堀口達が踏み込んで来るかも知れぬといふ場合に、斯んなところを見つかりでもしようものなら、また何んな聞くに堪へぬ罵倒を浴せられるかも計り知れない。別段堀口達の思惑を顧慮するわけではなかつたが、自分達にとつて余りに途方もない言葉を、あのやうに信じきつた態度で放言する堀口を、百合子の前に見出すのは苦し過ぎる光景に違ひなかつた。
それよりも、斯んなところにうろ/\してゐるのを百合子に気づかれなかつたのも何よりの幸せであつた――レディの寝室の気合ひを窓の外から窺つてゐるなんて!
「そんな――」
滝本は思はず苦笑ひを浮べながら、家の囲りを半周して表の方へ抜け出て来ると、遥かに海が見降せる庭先の芝生に出て寝ころんでゐた。
――「さあ、どうぞこちらから……いえ、もう、お関ひなく――。玄関と来たら、いつでもちやんと錠がおりてゐるといふ仕末なんですから。はツはツ……いやはや、どうも――熱烈なものでして、世間態も何もあつたものぢやありません。」
堀口だな――と思つて滝本が振り返つて見ると、滝本が見知らぬ中年の婦人をいんぎんな様子で案内しながら、何時ものやうに大手を振つて庭先へ廻つて来る堀口であつた。泉水を隔てた木蔭に寝ころんでゐたので彼等は滝本に気づかなかつた。
堀口は椽側から座敷の中を覗くと、
「これは、何うも――」
と思はず嶮しく顔を顰めて、伴れの婦人を顧た。――其処には、早朝に滝本が堀口の電話に起されて、飛び起きたまゝの寝道具が取り乱れてゐた。堀口が覗いた椽側の雨戸が一枚開いてゐるだけで、人の気合の有無も判別し憎いほどの暗さであつた。
急に声を潜めてしまつたので滝本のところまでは言葉は達しなかつたが、堀口は不思議な笑を堪へながら胸を張り出したり、屹ッと眼を据えて、何事かを囁きながら指差しをして、大業に点頭いたりした。――すると彼等は、更に何事かをひそ/\と耳打ちをしながら、足音を気遣ふような姿で、南天の繁みの間をくゞつて裏の方へ廻つて行つた。
二人は百合子を見つけ出すであらう――と滝本は思つたが、たゞ、変な人達だな! といふ心地がしたゞけだつた。そして彼等が、途方もない淫らな想像で勝手な好奇心を動かせてゐるらしいのに、馬鹿々々しさを覚へたゞけだつた。
自分は、それにしても今朝、堀口にあんなことを云はれて、何うしてあんなに逆上したのだらう――と滝本は、あの時の心的状態を回想して見ると、急に、わけもわからなく、百合子がいとほしく思はれて来た。――何も知らずに寝台に突ツ伏してゐるであらう百合子を、カーテンの間から覗き見してゐるであらう二人の者の心持になつて想像すると、滝本は酷く不健全な、そして目眩《めまぐる》しく甘美な陶酔に誘はれながら得体の知れぬ烈しい嫉妬感に襲はれた。
滝本が二人の後から、裏庭に廻つて来て見ると、百合子は窓から半身を乗り出して、至極長閑な面持で、窓下の二人の者と何やら会話をとり交してゐる。――滝本には意外な光景だつた。
「守夫さん、何処へ行つていらしたの。妾、すつかり寝坊しちやつて、今母さん達に窓を叩かれて、吃驚して目を醒ましたところなのよ。」
滝本の姿を見出すと同時に百合子は左う云つた。それで、窓下に立つてゐる堀口と伴れの婦人が滝本の方を振り返つた。
と、堀口が極めて恬淡らしい豪傑気なひとり笑ひと一処に、
「やあ!」
と云つて滝本の肩を叩いた。「今朝は、何うも、つい言葉の勢で飛んだ失敗をしてしまつたよ。悪く思はないで呉れ給へ。」
「どうも此度は、また百合子が――」
傍らの婦人が続いて挨拶した。
「森さんの奥さん――」
堀口が、百合子等の継母を滝本に紹介した。「君は始めてだつたかね。」夫人は主人の代りに出向いて来た由などをつけ加へた。
「ぢや、二階で待つてゐるからね。」
堀口が滝本へとも百合子へともつかず左う云つて夫人と一処に其処を立去つた。滝本は堀口は寧ろ曇り気のない愉快な人物であると思ひ直した。
「あれから、ずつと起てしまつたの――散歩にでも行つてゐたの?」
「……直ぐ、あの時百合さんの後を追つて此処に来て見ると、ドアに鍵が降りてゐるようだつたから――」
「いゝえ、妾、鍵なんて降しはしなかつたわよ。」
では、あまり慌てゝ感違ひでもしたのだらうと滝本は思つたので、
「僕はあの時百合さんが傍に居るなんてことは少しも知らずに、堀口さんと思はずあんな喧嘩をしてしまつたけれど、若し、あれが、もう二三言続いたら僕は夢中になつて外へ飛び出して行つたかも知れなかつたよ。百合さんが傍から受話機を引つたくつて呉れたので――幸せだつたんだらうな。」
と、胸のうちに震へを覚へながら呟いだ。
「そんなことになるだらうと思つて妾も、いきなり仲裁に入つたんだけれど、それにしても、やつぱし昨日と同じ原因で、あの張札かなんかのことで、堀口さんと、あんなことになつたの?」
「…………」
堀口が何んな類ひの雑言を放つたか百合子は気づいてゐないと見へる――と思ふと滝本は、決してあの罵り合ひの理由を伝へるわけにはゆかなかつた。「百合さんには、あの人はあの時何んなことを云つたの?」
「何だか好くはわけがわからなかつたけれど、妾が此処に泊つてゐることを誤解してゐる見たいだつたわ。」
「――侮蔑を感じなかつた?」
滝本は、おそろしく眼を視張つて百合子の気色を窺つた。
「何うして……?」
百合子はけげんな顔をして、軽く首を傾げた。――そして稍間をおいてから、掌で嗤ひをおさへながら、
「そんな、侮蔑なんて――そんなもの妾には解らないわ。」と云つた。滝本は、訊ねきれぬものが多過ぎて、途方に暮れた。――寝室に駆け込んで、突ツ伏してゐる百合子の姿が、あのまゝで、何時の間にか薄ら甘い疑問の、そして夢のやうな画になつて印象に残つて来た。白昼の架空に描いた幻のやうに見えたり、古風な物語の中のアカデミー派の挿画の一つのやうに、眼の先の百合子の姿から遊離して、頭の一隅に映つて見へてゐた。
「兎も角一度家へ来るようにツて母さんが今迎へに来たんだけど――それはね、世間態なんですつて、此処に居ることが許されないんですつて――」
「それは当然のことかも知れないね。」
「だから妾、黙つて従いて行
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