てゐて頂戴な――」
 ローラが化粧箱を叩くので、滝本はシートを向ふ前に座り直して額ぶちでもさゝげる見たいに鏡をその顔の先に持ちあげた。――そして滝本は、しげ/\とローラの顔を眺めてゐた。ローラの碧い瞳に、自分の顔が小さく映るのが窺はれさうになる位ゐ眼近に、ぼんやりと娘の顔を眺め続けるのであつた。
 ……さうしてゐると滝本は、止め度もなく不可思議な人生の、奇抜な因果観念に襲はれてならなかつた。異様な冷たさを湛へた不意の新しい血潮が激しい勢ひで身内を流れはじめたかのやうな変な震えを覚えた。さうかと思ふと、全く心には何の衝動もなく、たゞ珍らし気な人形に接してゐる見たいな白々しい心地に誘はれたり、夢遊的な面白さに駆られたりした。そして、たゞ妹といふ常識的な観念が何うも切実に響いて来ない憐れつぽいやうなもどかしさに追はれて敵《かな》はなかつた。
「ローラさん、日本語を用ふのは骨が折れますか?」
 さつき滝本が話したのと違つて、ローラはあまり日本語を用ひないので百合子が左う、大分に教室的英会話風に訊ねると、ローラは気の毒さうな顔をして、殆んどもう忘れてしまつたから、これから精々プラクテイカルに聞き覚へたい希望を持つてゐる、どうぞ親切な教へ手になつて呉れ――と心細さうに云つた。
「素養があるんだから、忽ち上達するだらう――それに、僕達の仲間の会話には、地方色がないから、聞いたまゝを、そのまゝテキストにすれば大丈夫だらうよ。」
 滝本は自信あり気な口調で、そんなことを呟いた。
 H駅で降りると、塚本の七郎がラツキーに曳かせた馬車を持つて迎へに出てゐた。
「皆なは?」
 武一や竹下達のことを滝本が訊ねると、皆なは森の家で歓迎宴の支度をして待つてゐる――。
「うちの親爺も八重もお手伝ひで大騒ぎだよ――だけど今から出掛けて行つたら竹下さん達には多分途中で遇ふだらう。」
 七郎は妙にとり済してゐた。そして、凝とラツキーの轡をとつてゐた。――荷物は別の車で送ることにして、出発しようとすると、七郎は、滝本に馭者台に乗れと云ふのであつた。
「ラツキイの奴は、どうも俺の云ふことを巧く訊きやあがらないんだ。篠谷に行つてる間に大分駄馬になつたらしいぜ。」
「車を曳かせるのも乱暴だな。」
 競馬用だつたのに――と滝本は思つた。
「もうどうせ今年からは競馬には出さないつて云ふんで、篠谷ぢや野良になんて伴れ出してゐたさうだよ。俺は、それを聞いた時には太一郎達が何か新しい魂胆を回らせてゐるんだらうと思つたが――」
 二人が、荷物の支配などをしながら篠谷に対する憤懣からついつい荒つぽい言葉を取り換してゐると、何時の間にかローラが傍らに来てゐて、滝本と七郎が、
「よしツ、もう二度とラツキーは渡しつこないから!」
「あんなべら棒な話つてあるものか!」
 さう云つて言葉が止絶れると、ローラは酷《ご》く熱心な眼を輝かせて、さつきから二人の会話を非常に注意深く聞いてゐるのだが、さつぱり意味が解らない、二人は何か争ひを始めたのか? 「あいつ」といふのは「彼《ヒイ》」の意で「俺《おい》らはなあ!」といふのは「自分が考へる処に依ると」といふ意味だと百合子が教へたが、その他の「べら棒奴」とか「あん畜生奴が」等と云ふのは(それがまたこの時非常に屡々二人の間で使はれてゐた。)一体何詞に属するのか? と滝本に質問した。一体滝本は、何事に依らず説明をするといふ業が酷く不得意だつたが、この時は七郎から篠谷の噂を聞いて向つ肚が立つてゐて、凡そローラの心持とはうらはらだつたせゐか、面倒臭さうに、それは単なる感投詞だ! と答へたゞけであつた。
 ラツキーに車を曳かせるのを思ふと滝本は、いろ/\と胸が痛んだが、百合子は関はぬと云ふし、それに踵の高い靴を穿いてゐる二人の娘に村までの道を歩かせるわけにも行かなかつたので、上着を脱ぎ棄てゝ馭者台に乗つた。
「ぢや俺は先へ行つてゐるぜ。若し途中で太一郎にでも会つたら、ラツキーの話なら塚本に来れば解ると、若し向方で何か云つたら左う云つて……」
 七郎は自転車で走つて行つた。

     十

 駅から森のR村までは海に臨んだ崖道に沿つて、山裾が翼になつて彎曲してゐる蜜柑や麦畑の丘の下をうね/\と迂廻しながら、三つの部落を過ぎた後に、北へ、山へ向つて二里ばかりの田圃道をたどらなければならなかつた。――午迄には未だ余程の間がある真夏のきらびやかな朝の陽《ひか》りのうちだつた。白い雲の峰が水平線の上に一塊りになつてぽつかりと浮んでゐた。山裾を回つて裏側の道へ向ふ時は恰度崖道が海の上へ向いてゐるやうなかたちになつて、沖合の雲が脚下に見降せるのであつた。滝本は、なるべくラツキーの脚並みを和やかに保つて、座席の者と話を交しながらすゝんで行つた。ローラは次々に展開されて来る新しい風
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