て、
「君の親父は恩知らずだな。」
いきなり左う怒鳴つた。
「だけど八重は、そんな小間使ひなんて、そんな柄ぢやない、当人が何うしても訊かないんだから……」
七郎は、まるで芝居のやうな話だ! と思つて、思はず横を向いて笑つてしまつた。恩知らずなどと何を楯に云ふのか七郎は知らなかつたが、八重を、先づ行儀見習ひとして奉公に出し、ゆくゆくは嫁にするかも知れない――なんて云ふ馬鹿/\しい篠谷の申出を真面目に諾ける筈はないと思つてゐた。太一郎の、小間使ひの話に瞞《だま》されて、飛んだ破目におとしいれられた漁場の仲間の者の娘に就いての事件を七郎は知つてゐる。
「やあ、ラツキーが、もう来やがつた。――これから帰りがけに君の家に寄つて行くんだが馬蹄《かなぐつ》は間に合ふかしら?」
太一郎は、篠谷の下男に引かれて渚を歩いて来る馬を眺めて、また念をおした。
「だから私には解らないと……」
七郎も其方を眺めながら、
「あれは森さんの馬ぢやないんですか?」と呟いた。
「無論さ。」
太一郎は得意さうに小鼻を蠢めかせた。「武一の奴が、馬鹿な自惚れを出して、お前んとこの親父の借金証書に判など捺しやがつたから、彼奴の知らない間にラツキーを金利の代償に分取つてやつたまでさ。」
「一体その金利とかは幾ら位の……?」
「百円ばかりのことなんだが、君、払へるかね。尤も、今年の競馬でラツキーには相当儲けさせるつもりなんだが――」
太一郎は、にや/\してゐた。七郎は、そんなことは夢にも知らなかつた。第一、自分の父親が篠谷に負債があるなんてことも初耳である、そんな借金がある位なら父が自分に話さない筈はない――と思つた。不図七郎の頭に、わけもなく自分の家の壁に掲げてある写真が映つた。尋常科を出る時の記念の写真だから二十年も前の姿だが、その中には武一も守夫も、そして太一郎も居る、皆なはあれから中学へ行き自分は高等小学へ進んだ――部屋の中にそんな額より他に何の飾りもないためか、始終それを見あげて、皆の子供の顔かたちを今でもはつきり覚へてゐる――何うしたことか七郎は急にそんな幻が、昨日のことのやうに眼の先にチラついて来た。幻と、見並べて見ると、眼の先の成人の太一郎だつて、はつきりと昔の面影を宿してゐる……。
「ぢや私は、これから武ちやんのところへ行つて、事情を聞いて来ませう。」
何故俺は、この太一郎にだけ斯んな言葉づかひをしなければならなくなつたのだらう、何故太一郎ばかりが独り奇妙な傲慢の館に立てこもつて仲間脱れになつてゐるのだらう――俺は無教育の漁夫なために、斯んな他合もない意久地無さに襲はれるのか知ら。――然し七郎は、たつた独りで小舟に乗つて何うしてもつかまへることが出来ない過ぎ去つた日の夢を追ひかけてゐる見たいな、取りとめもない雲のやうな寂しさに襲はれてゐた。漁夫である自分が、無性に悲しくなつて来たりするのであつた。理屈は、さつぱり解らなかつた。
「馬鹿な、今更武一に訊いたつて何うなるものかね。――それよりか、八重を奉公に寄せば此方ぢや三年分の給料を先に払ふといふ条件つきなんだよ。」
奉公だけなら恥ではない、武一に迷惑が掛つてゐるのなら一層太一郎の申出を享け容れてしまはうか? ――七郎は、簡単に左う思つたが、渚で洗はれてゐるラツキーを見ると、まるで馬と妹とを取り換へる見たいな矛盾を覚へ、男はず[#「男はず」はママ]屹つと太一郎の顔を睨め続けるより他に言葉を失つた。
「考へるところはなからうが、今の君の立場として見れば……。武一に相談して来るなんて、そんな君、意久地の無い話ツてあるものかね。それに君は今や塚本家の当主なんだぜ。主人公が自分の家の負債に就いてさつぱり無我夢中だなんて、そんな事が他人に話せる類ひのものだらうか、君の考へひとつで何うにだつて整理のつくことだし、加《おま》けに相手が僕の場合なんだから色々と好都合ぢやないか。それよりも君、うか/\してゐると法律上厄介な話にもなるからな!」
法学士なんていふ肩書を誇示する太一郎に斯んなことを云はれると七郎は、何だか得体の知れない怖ろしい影がいつの間にか自分の後から翼を拡げて忍び寄つてゐるかのやうな不安に襲はれた。
「で、八重が君の家へ奉公へ行きさへすれば何も彼も綺麗になるといふわけなんだね。」
「さうさ、たゞの奉公だよ。何も妾に寄せなんて云ふわけではない。君の親父は何か感違ひして、やがて俺の嫁にでもするのか、それでは境遇が違ひ過ぎるからなんて恐縮してゐるんだが、尤もな話だよ、冗談ぢやない、親父こそ自惚れだ、誰が八重となんか――。たゞさうでもしなければ君の家の格構がつくまいと此方は心配して、寧ろ余計な世話を焼いてゐるまでのことさ。」
「……有り難う。だが、その話は今此処で決めなければならないほど、その期間《き
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