意味はないんだよ、年寄りなどは往々そんな例を引いて処世上の戒め言に云ふ場合もあるらしいが、俺のは違ふのだ、実際上の、生理的な、積極的な病らひごとなんだから堪らないんだよう!」
やつぱり自分の事が話材になつてゐたのか……と私は、気づいた時突然妙に上づツた口調で喋舌り出した。彼女等に、そんなことが荒唐無稽な瑣事に扱はれてゐるのに、一度は安易を感じ、また、未だそれが続いてゐたことを知ると、不満を感ずる前に酷くテレ臭くなつたのである。それで私は、故意に固くなに、意味だとか、処世上だとか、積極的だとかいふ言葉を挟んだ弁舌を弄し、笑はれてしまはうと務めたのであつた。と、彼女等は、聞いてゐないと思つた私が突然喋舌り出したので驚いたのか、返つて真顔になつて私の顔に視線を注いだので、一層私は、擽つたくなつて、
「まつたく自分では、はつきり解らないことだぜ。嘘だと思ふんなら各々手の平に試みて見給へ――良ちやんの口などはたしかに怪しい、周子の怪しいのは知つてゐる。」などと、心にもないことを続けて、二人の口を突らせてしまつた。
周子と良子は、白けて赧くなり厭な沈黙を保つた。……私は、しまつたと気づいた。一体私は、これに類する気の利かない失策を往々繰り返して来た性質だつた。私は、他意なく冗談を云つたつもりなのだつた。二人が笑つてしまふであらふことを予期して、云はば甘心を買つたのである。――また、暗に自分に対する周子のあの親切に報ゆる心もあつたのである。同時に今の一寸とした自分の不貞な空想を謝してゐるつもりもあつた。周子以外の者の前では、あの他合もない己れの不快な病らひに就いて話すことを恥ぢてゐた筈なのに、そして彼女にも自分のその心は解つてゐた筈なのに? どうして? 今! そんなことがこゝに公開されたのかな? 自分から先に何か話し出したのだつたかしら? それに違ひないんだらうがな? ――そんな鈍い焦噪から私は、どぎまぎしてあらぬ空想に走り、己れに関する彼女等の話題を糊塗せんがために、口走つたのである。――でも、あんまり云ひ方が甘味を欠き、毒々し過ぎたのかな? 憎態に冷たく、ぶつきら棒に響いたのかな? ……兎も角私には、彼女等の自尊心を傷ける所存は毛頭なかつた。
だが私は、彼女等の持ち続けてゐる白けた顔に接してゐると――此方こそ静かに、勝手な肚がたつて来るのに敵はなかつた。だから私は、彼女等の私から享けてゐる不愉快さなどは知らん振りをして、
「どうでえ、うまく当つたらう。」などと、小鼻をうごめかせながらにたにたした。
「何さ……」
さう云つて良子は、ツンと横を向いた、淫猥な親父を嫌ふ小娘のやうに、冷たく振り払つた。……厭に突ンがつた鼻だな、さつき思つたことは、ありやみんな嘘なんだ、嫌ひだよお前なんぞは! 余ツ程、自惚れも強いらしいな、チヨツ……私は、その取り済した白々しい鼻に、今日はまた夥しく胸の気持が悪い吐息をハアツと吐き掛けたら、どんな顔をするだらう――そんな途方もない光景を想像したりした。
「どうだね?」
「…………」
「良ちやんの横顔には、何か美しい……」
「まア……」
ほらほら、一寸と讚めると直ぐにあれ[#「あれ」に傍点]だうつかり傍へ来ると危いぞ――私、は気持の悪い胸をさすつてゐた。
「チエツ……」と、周子が強く舌を鳴らしたのに私は、酷く胸を打たれた。周子が其処にゐたのを私は、忘れてゐたやうだつた。彼女は、私の心が甘く良子に走つてゐるといふ風に認めてヒステリツクな眼つきをした。瞬間的ではあるが罪を打たれたやうな気合に私は、酷くどぎまぎして――素知らぬ風をして、
「あゝ、どうも気分が悪くつて困つた。」と、急に陰鬱らしく呟いで、今の醜い発作的の滑達さを消した。そして、手の平に息を吹きかけて、
「くさくはないかな、口が?」と、云つて周子を見た。
「…………」
「憤るなよ、自分のことを云つてゐたんだよ、誰が、失敬な! 他人のことをそんな風に思つたりするものかね、健康な人にはそんな不安なんてある筈はないよ。」
「だから、あたし達は平気よ。」
「だからさア……」と、私は、二人の顔を等分に見渡して、だらしなく己れの言葉を否定した。……「自分では、解らないものなんだが、これ位ひ気分の悪い時には、多少自分にも解るんだ、斯うしてゐると――」
私は、病人のやうに弱々しい声でそんなことを呟いた。
さう云つても彼女等は、未だ互ひにムツとして頑固に反ツ方を向いてゐた。二人とも唇を屹と結んで、肩のあたりで静かに息をしてゐた。――私が、その様子を見てゐると彼女等は、
「何でも好いから此方を向かないようにしておくれよ。喋舌りたければ、そつちを向いて勝手に独りで喋舌つてゐたら好いぢやないか、お前の云ふこと位ひ何んなに毒々しからうと何だつて、誰がそんなことを気になんてするものかね、好い気になつてゐるよ、馬鹿! 此方を向いて何か喋舌られると、息がくさくつて堪らないんだよ。だから横を向いてゐるんだよ。――他人と話をしたければ、さつさと嗽ひでもして来るが好い!」
そんなことを呟いてでもゐるかのやうに疑はれた。……いつか母が鼻をつまんで横を向いたのも、あれもまつたくのてれかくしの動作でもなかつたのかも知れないぞ――私は、水底に潜つて行くやうな寂しい惨めな思ひに打たれた。……そして、今更のやうに周子の、この間うちのあの忠実さに取り組るやうに親んだ。
そこに良子の居るのが邪魔だつた。――でも、さつきからそんな話が話題になつてゐたところだから関はないだらう――さう気づくと私は、一刻も猶予して濁られない程に苛々して、関はず周子に近寄ると勢急に
「どう?」と、判断を待つた。周子は、一寸と良子に気を配る身振りをしながら、仕方がなさゝうに此方を向いて苦笑した。私は、嬉しく救はれる思ひがした。――そして、いつものやうな長太息を試みた。
「フ……」と、周子は、肩で笑つた。
「どうよ?」
「うむ。」
「どうだ?」
妙に周子の態度が煮えきらないので私は、稍々鋭く追求した。すると周子は、ウツと息を切つて、薄ら笑ひを浮べながら、
「あたし白状するとね……」と云ひかけて、この人はさつき自分が良子と話してゐたことを聞いてゐなかつたのかしら? といふ風に良子を振り返つて眼を見合せてゐた。二人の友達が此方には少しも解らない暗号みたいな言葉で話しあつてゐるのを傍で聞いてゐる時のやうな私は厭な気がした。
「何よ?」
「悪いのかしら、あたしは? 良ちやん。」
「でも……」と、良子も苦笑した。
「何がよ。」と、私は叫んだ。
「それや、あたしだつて少しは気がとがめてはゐたんだが……あたし一辺もあなたの口の前で息を吸ひ込んだことはないのよ、今まで! 何時でも、その間は息をしなかつたわ、随分苦しいことなんだが。だつて厭だと云つては、何だかあなたに悪い気がしたし、それより他に方法がなかつたんだもの……」
はじめは苦笑しながらだつたが、だんだんに彼女の声は泣き笑ひのやうな震えを帯びて来た。「……あやまるわ。これは何時までも黙つてゐなければならないと思つてゐたんだけれど……何だか、あなたが、だんだん真面目になつて来るのが……でも、どうしても、どうしても、厭だ/\/\……」
「……」私は、彼女の今迄のあの場合の動作を細かに回想して、その巧みであつた芝居に舌を巻いた。
「御免なさい。」
彼女は、顔をあげてきまり悪さうに笑つた。
「あやまらないでも好いだらう。」と、私は、喉のあたりで唸つた。――起きあがつて、椽先の水溜りを眺めた。こんな陽の中でも、仔細に注意したら微かに息の煙りが見えやしないかな――そんな心持で私は、自分の生温い息をそつと窺つてゐた。
周子は、叱られた子供のやうに両袖で顔を覆ひ、耳まであかくして畳に突ツ伏した。そして、どういふつもりなのか? 笑つてゞもゐるのか? 神経的にブルブルと首を横に振つてゐた。良子の顔は、私は見なかつた。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
久し振りに保養に来たせいか、いろいろな疲労が一途に現れて当分の間は元気もなかつたが、それも次第に回復して来たらしい、今では努めて若労を避け、ひたすら療養を事としてゐる、折角だから日限を定めず暫く呑気に滞溜してゐたいと思ふ、だから当方には関はず帰京したくなつたら何時でも遠慮なくその儘そちらは其処を引きあげても関はない、私は成るべくならば秋冷を覚ゆる頃まで滞在してゐたい――修善寺温泉へ行つてゐる母からは、そんなやうな意味の通知があつた。
掘り抜き井戸は、もうとうに出来あがつて、荒れはてた庭の隅で静かに水を噴いてゐた。小さな水桶には新しい水が張り詰め、珠のやうに躍り、戯れるやうに砕けてさんさんと噴き滾れてゐた。
私は、夕闇の中に水の影が消え去せるまで其方を眺めながら、勿体振つた様子で盃を傾けてゐた。
良子は、幼い栄一と一処に湯に入つてゐた。栄一の暴れる音や、叫び声がのべつに癇高く響いてゐた。
「――栄一は、もう一里位ひ歩くのは平気ね、それや元気よ。」
「それで疲れたの?」
「そんなこともないんだけれど――家に帰つて来たら何だか急に苛々して来て……」
「…………」
「あゝ、何だかあたし気持がくしや/\して仕方がない、今日は。……皆なで今日は、方々歩いて来て可成り疲れてゐるんだけれども、お湯に入るのも面倒――」
「俺も今日は、珍らしく汽車に乗つて……」
私と周子は、そんな話を取り換してはゐたが少しも話が溶け合はなかつた。
「良ちやんは、明日か明後日あたり帰らうか知らなんて云つてゐる。」
さう云つて周子は、また庭の方へ眼を投げてゐる私の顔を見た。
「――もう飽きたのか知ら?」と、周子は、自分が先に云ひ出したのにも係はらずそんな風に呟いた。そして私の胸には全く響かなかつた冷い笑ひを浮べた。
「さうかしら……」
私は、軽く点頭くことで彼女のそんな気色を綺麗に拭はうとした。まつたく良子のことを口にした周子の素振りが、私に軽い悪感を抱かせた程素ツ気なく見えた。周子が他人に対してはそんな気振りを示さないのを常々私は快く思つてゐた。――だから私は、避けて、事更に伸びやかな調子で、
「あゝ、今日は俺も変に疲れた。」
さう云ひながら、昼間の務めを終へて来た務め人のやうに落着いて、首筋のあたりを撫でてゐた。
この日に私は、止むを得ない用事で厭々ながら、汽車で一時間あまりかゝる市《まち》の或る役場まで行つて来たのである。――私は、まだ庭の方に眼を注ぎながら、何かそれに就いて相手にはつきり聞きとれぬ程の声でブツブツと呟いでゐるのを、暫らく黙つて聞いて(?)ゐた周子は、煩ささうに、
「そんな処に、あんな造作もない用達で行く位ひのことが、何がそんなに面倒なのさ。」と云つた。
「そんなことを思つてゐるんぢやないよ。」と、私も何か煩さゝうに云つた。
「様子は解つたの、まごつきはしなかつたの、初めてゞ?」
「初めてぢやない、二度目なんだよ。」と、私は、それだけは、はつきり云つて、直ぐに愚図/\と口のうちで――「でも、初めても同じやうなものだし、まつたく何ンにも厄介なこともないんだが、いつでも俺はあゝいふ処へ行くと、まるツきり悸々してしまつて、だから俺は銀行や郵便局見たいなところへだつて滅多に入つたことはないんだが――これは、つまり極く平凡なおとなしい人民の……あゝいふ空気を畏れるといふ習慣は祖父からの教育――悪い習慣ではないと思ふんだが、不便なことが……」などと、愚にもつかないことを呟いでゐた。祖父は、町の衛生検査員が来ても心からの畏敬を示す人だつた。頼んで居て貰つた警官が、
「官服を脱いだ時には、そんなにされては困りますよ、加けに私は若いんですからなア。」と云つて、夕涼みに来る時などは頭を掻いても、子供の私が足を投げ出してゐてさへ厳しく坐り直させた。
「口が利けたの?」
それには答へないで私は、上眼を使ひながら云つた。「……ところが変なんだ。名前がだね、SぢやなくつてH・タキノなんだらう、向方ではつまりHとして俺を取扱つてゐるんだらう!」
「
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング