だから無理もないが、そしてあれは常態の叔父だからあんな回想で多少鬱屈を晴らされるのだが……前の晩あたり酔ひ過ぎて何かそれに類する痴態でも演じたのかな?
「まさか……」
「え?」
「いや、昨夜酔つた?」
「でも、おとなしいわね、この頃のあなたは……例の唱歌さへ歌はないわね。」
「たゞ、にや/\してゐるばかりか。あまり有りがたくもないぞ。」
「でも、陽気だから好いわ。」
「さうかね。」
「良ちやんなんて愉快がつてゐるわ。」
 ――皆な手の施しようもなく、蒼ざめて、突然の叔父の狂態を眺めてゐた。私は彼が酒にでも酔つてゐるのだらう位ひにしか思つてゐなかつた。だから日頃とあまり変りのない親しさで眺めてゐた。或る夕方、突然彼は、そんなことになつたのである。――たゞ、平常はあんなに可細い声で、笑ひ方などは喉の奥で山羊の鳴き方のやうだつた、そして誰にでも柔順である彼が、――彼の何処からあんなに凄まじい大きな声が出るのか? と私は、可笑し気な心地で眺めた位ひだつた。
 この章の冒頭にあるやうなことを怒鳴りながら彼は、家中を駆け回つてゐた。
「親父は何処へ行つたんだ。」
「おい/\、気を鎮めなければいけないよ、何をつまらないことを云つてゐるのさ! 阿父さんは、死んだんぢやないかね、去年。」
 おろ/\として祖母は、云ひ含めてゐた。私は、その時になつて初めて彼の様子の怪しさに気づいた。
「ふゝん、意久地なし奴! 手前えは何処の婆アだ! 毒を呑ませるのか、俺に……、誰が呑むものか、皆な吐き出してしまふぞウ――ギヤア、ギヤア、ギヤア――だア!」
 そして、私が襖の蔭から覗いてゐると彼は、理由もない聞くに忍びない文句でさんざんに祖母を毒づいてゐるのであつた。――……私の眼からは、気づかぬ間に涙が滅茶滅茶に流れ出てゐた。子供の私が、涙を滾しながら、声を挙げなかつた経験はこれ以外に覚えは無い。
 私は、煙りにいぶされた時のやうに胸苦しく五体が咽び、ぼうツと溶ける思ひがした。家の中が洞穴のやうに見えた。そして、キラキラとする眼に叔父と祖母の姿が水底に住む魚のやうに物憂く蠢動し、激しく水を蹴り、近寄り難い別世界を覗いたやうに、怖ろしく暗く綺麗に映つた。――この痴呆的恍惚から私が引き戻された時は、叔父が叔母の襟髪をとらうとした刹那だつた。私は、キヤツと叫んで襖の蔭から躍り出ると(母も、キヤツと叫んで私をとらへようとしたが、私の身の交し方が速かつた。)彼の胸に夢中で飛びかゝつた。
「お前えは居たのか?」
「何云つてゐるんだい、馬鹿野郎!」と、私はあらん限りの声で叫び、彼の胸を擲つた。――すると彼は、鬼の真似をして私に飛びかゝつた。私は、その横面に手をあげた瞬間、ふと思つて――(何アに、いけなければ死にもの狂ひの喧嘩だ!)たゞ、身を交すハズミに一寸と間隙を感ずると、思はず無意識に、
「ハツ!」と彼の顔に息を吐きかけた。と、彼は、
「ワツ、やられたぞ――しまつたなア!」
 斯う、いつもの遊びの時と同じ調子のうめきを挙げ、規定の声を放つて、どたりと其処に昏倒した。
 私が、寧ろアツ気にとられた。祖母も母も、私達のこの霹靂の如き奇怪な早業に打たれて魂の抜けた姿で、部屋の真ン中にふんぞり返つて声一つ立てずに唇を噛んでゐる狂人の姿を、震えながら眺めてゐた。――そして私は、自ら得体の知れぬ得意さで、にやりとすると同時に、極度の昂奮から激しく五体が震え出し、忽ち貧血症を起した。
 その後幾日か経つて彼は、東京の癲狂院へ送られたのであるが家人は、長い間私の前では、彼は学校に帰つたのだといふ風に取り繕ふて置かなければならなかつた。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 母が留守になつてから、周子や良子は明らかな寛ろぎを見せてゐた。――彼女等のそれに私は、軽い厭はしさを覚えながらも、己れも動作に現さぬ程度では、いくらか彼女等のそれに似たらしい感情を抱いてゐるのに気づいて、秘かに憮然とした。幼年時代を母と共に長く父の留守を守り、その儘母と共に成長して来てゐる私は、そして常に幼年時代の愚かしく感傷的な追憶家である私は、今頃になつて一寸とでも母を忘れる心などに出遇ふと盗心を起した程に酷く慌てゝ、吹き消さずには居られなかつた。
「いくらか、避暑にでも来てゐるやうな気分になつたかね。」と、私は何気なさを装ふて彼女等に訊ねた。
「えゝ。」と、良子は無邪気さうに点頭いて薄ら笑ひを浮べてゐた。周子も、それに殆ど同意するやうに、
「あたしは未だ一辺も避暑とか旅行とかをしたことなんてないから、そんな気分なんて知らないわ。」と云ひながら、皮肉らしく、地震後に仮のつもりで寄せ集めの古木で建て直したらしい、そしておそらく永久にその儘に終るであらう、小屋のやうにがさつな家の中を見廻してゐた。
「さう云へば俺もさうだなア。」
「でも、あなたは幼《ちいさ》いうちは方々へ出かけたことがあるでせう?」
「いつか一年ばかりお前と一処に熱海に住んだ位ひのものだよ。」
「だつて、あれは――」と、彼女は、情けなささうに笑つた。
「でも、家にゐるよりは好かつたと云つてゐたぢやないか?」
「批べればさうかも知れないが……」
「ぢや、今の東京は?」
「知らないわよ。」
 笑ひながらではあつたが、さう云つた時に彼女は、微かに溜息を衝いたらしかつた。――彼女は、どんなに金銭には貧しくとも己れの生家の、貧しきが為に少しも純情を失つてゐない同人達の方が遥かに好もしい、初めはありふれた女らしい生活上の豊かな夢を抱いてこの男と結婚したのであるが、片鱗にもそれに報はれたことはなく、そんなことよりも第一食物などと来たら生家のそれよりも貧弱で、それをまた一同が不平な顔もなく百年の習慣のやうにボソボソと喰ひ、稀に珍らしい料理などが出ても誰も味などに注意する者もない、気の利いた料理の名前などは彼女程度にも知る者はなく(実際彼女は、結婚当座こゝの食物は碌々喉に通らなかつた――先づ彼女はそれを軽蔑した。)、そして、口の先きでは(死んだ父以外の者は)妙に厳しさうな掟を守り、その癖内々では同人同志でも嘘のつき合ひをしてゐるやうなこの種の家庭に沁々と幻滅を感じた、加けに此方の非ばかりを鳴したがる意地悪るな連中……。
 そんなやうな意味のことを言外に含めて、時々遠廻しに私を詰つた。まつたく不自由に不公平な、悪い意味で古風な(例へば私は、結婚後に他の家人と別居するなどといふことが心苦しかつた。)頭の所有者である私は、彼女からでも吾家の非難を聞くと直ぐにムツとするのであつた。が、一寸と言葉を遠廻しにしてやると、諾々としてゐる私のその場の呼吸をすつかり呑み込んでしまつて、様々な手法で常に彼女は私に復讐をしてゐた。たしかに私は、その場の頭が遅鈍なのである。そこでは少しも気附かない、その癖恬淡とはおそらく反対に、一週間も経つてから漸く知らずに聞いてゐたことに疑念を持つて、と、突然ムツとして、時にはそこで何故自分は今ムツとしたかを当の相手に説明して返つて屡々冷笑されることが多かつた。だんだんに彼女の手法は巧妙になつて、滅多に私はそれに気附くことはなかつた。だから今では、稀にずつと後になつてそれに気附いても、怒れば如何にも己れの遅鈍を今更披瀝するやうな臆病さに囚はれたり、惨めな敗北の矢を吾手で吾が胸に突き刺すやうな痛さを怖れて、返つて卑屈に、純情を殺さねばならぬやうな破目に陥ちてゐた。――彼女の純情を傷つけたのも亦私なのである。……様々なかたちで彼女から復讐されても仕方がない程私は、今迄多くの意地悪るを施してゐるのだ。二人のそんな感情を私は、沁々と嘆くことがあつた。だから私は、彼女の私に対する忠実な方面を一層見極めることで、云はゞあんな寂しさから救はれようと努めた。
 ――俺の口の試験をして呉れるのは今では彼女ひとりだ。
 私は、そんなことに、あのやうな感傷に走り、感謝を抱き、得難き親密を感じ、時には秘かに涙ぐましく胸を悸はせ、好もしき伴侶とさへあがめた。
 私は、上向けに寝転んで、うつかりするとこの頃さういふ新しい癖が生じた――知らずに口をあいてゐた。……祖父は、父と同じく突然脳溢血で倒れたのであるが、死んでから大きく口をあいてゐたので、傍の者が交る交る顎をさすつてそれを閉ぢさせた。自分もすゝめられたが倒々手を触れなかつた――。
「その罰かな!」
 ふと私は、自分の新しい癖に関聯なくそんなことを思つて首を振つた。
 ……「そんな風になるとね。」と、周子は、さつき私が何か話し出したことに就いての続きらしく、呑気さうに良子と語らつてゐた。「――一番気になるのは口のにほひなんだつてさ、自分の!」
 おや、俺のことかな! ――微かに私は、ギクリとした。
「へえ! 変ね。」
「あたし始めは冗談かと思つてゐたら……」
「冗談でせう。」
「さうかしら?」
「いや……」と、私は云ひかけて彼女達があまり軽々しく話し合つてゐるのに気が引けて、仕方がなく笑ひを浮べてゐた。(それにしても周子の態度が何だか可笑しいな、あいつはそんなに軽い気持なのかしら? それならば何もこの間うちから良子の前などを慮つて、あんな不便を忍んでゐる程のこともなかつたか?)――私は、他人《ひと》の前では、外出の時妻から帽子をとつて貰ふのさへ好まなかつた。他人の前でなくても、妻から着物を着せかけて貰つても背中がムズ/\するのであつた。
 私は、二人の顔をそつと見比べて、若しこの二人が自分の妻の候補者として並んでゐるのだとすると、果して自分は何方を選むだらうか、良子の方が美人かな、多少は? いや、よく/\見るとさうでもないかな? いや、さうだらう、可憐気なところが一寸とあの[#「あの」に傍点]女に似てゐるな? ――(どうしてあの[#「あの」に傍点]女などと云つたのか私は知らない、まるで出たら目なのである。)……何かものを云ひ終る毎に軽く唇を噛んで、キヨトンと相手の顔を見るところが一寸と好もしいね、あまり自分を信じないといふやうな適度の柔かい風情があるね、それでゐて他人を強ひもしなければ、自分の説明などしないところも好いね、会話が止絶れても相手にもどかせがらせるやうな気分を起させないな。眼つきは明るく悧口さうだ、そしてあの相手の返事を待つ間に微かに首をかしげるところが何となく好いね……さうだ、この挙動はFに似てゐる――これはいけない、俺は、あの青い眼のFに怪し気な恋情を抱いたことがあるのだ。
「ほんとなのよ、良ちやん。」
「変なことを気にするのね。」
 良子は、殆ど興味なさゝうに点頭いてゐた。――私は、そんな話が早く終れば好いと思ひながら、彼女等のその扱ひ方が、私の自負と違つて軽いのに稍々気易さを求めた。そして別に、ひとりの思ひを続けてゐた。
「厭アね、」などゝ良子は、時々顔を顰めたりしてゐた。
「でも、厭だといふと憤《おこ》るらしい――」
「だつて、そんな馬鹿/\しいこと憤る方が間違つてゐるわ。」
「だから未だ憤つたことはないけれどもさ……」
「さうでせうとも……」
 彼女等は、他の話の合間でも長閑に笑ひながらそんなことを云つてゐるのがきれぎれに私の耳に入つてゐた。
「でも困ることはない!」
「それア、随分……」
 時に依ると、何んなことを云はれても私は、たゞにや/\してばかりゐる時がある、どんな失敬なことを眼の前で話されても決してふくれ顔もしない時がある――私にすれば、それには多少の理由もあるのだが、周子は、大ざつぱに私の気分をその様に二分して、その場合場合に依つて私に処してゐる風な私にとつては少し迷惑な態度を何時の頃からか執つてゐるらしかつた。だから斯んな時には彼女は、安心して放言してゐるらしかつた。それに今私は、別な想ひに走つてゐたので、彼女等のきれ/″\に聞ゆる会話は、私に関することではないやうに思はれてゐた。
「慣れば、怖い?」
「そんなに……」
「でもよ?」
「だつて、そんなことではまさか!」
 ――「まつたく、自分には自分の口のにほいは解らないものだぜえ! そのことは別段それ以外に何の……いや、
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