んだよ、そこの役場の威張つた人のは……低い眠いやう声でね。」
「どうして――」
「此方は別に呼び棄てにされることはないんだね、と云つてさん[#「さん」に傍点]では向方としては具合が悪いんだらう……ヤマザキといふ人[#「といふ人」に傍点]とか、タキノといふ人[#「といふ人」に傍点]とかとさ、さん[#「さん」に傍点]の代りがいちいちといふ人[#「といふ人」に傍点]なのさ――何某といふ人[#「といふ人」に傍点]は居らんのかね、とそんな風に云はれてゐる人もあつた。それがまた、酷く厭々らしい憤つたやうな調子でさ……」
「…………」
 それがどうしたの? といふ風に良子も、さつきから沈黙を保つてゐる周子と退屈さうに顔を見合せてゐた。
 ヤマザキといふ人の方が、私よりも先に用事が済んで、
「お先きに――。大分混んで来たやうですから聞き損はないやうになさいよ。」と云つて帰つて行つた。
 私は、煙草を喫しながら窓に凭つて、白く光つてゐる真向ひの窓や、そこの石の階段や、まぶしく陽を享けてゐる小砂利の道などをうつとりと眺めてゐた。
「タキノといふ人……H・タキノといふ人は居らんのかね。」
 二度目にさう呼ばれた時に私は、木槌で胸を打たれたやうに吃驚りして
「はアい!」と、思はず、相手に反感を覚えさせる程に太く返事した。
「居ります、居ります。」
 さう云ひながら私は、慌てゝ小さなトンネル型の窓口に突きすゝんだのである。積つたばかりの雪の上を歩くやうに、厭にガクガクする膝骨をしつかり爪先きと踵で踏み応えながら、夫々の脚に注意深さを注ぎながら。
「直ぐに返事をして貰はんければ困るね、後がつかえてゐるのに。」
「はア、どうも――」と、私は、吻ツとしながら叮嚀にあやまつた。
「良ちやんは、二三日のうちに帰るんだつて?」
 私は、そんなつまらない思ひを振り棄てるやうに首を振つて、新しく良子に訊ねた。
「どうしようかしら?」
「僕らが帰るまで居たら好いぢやないか、一処に帰らうよ。」
「えゝ――だけど?」
「もう飽きたかね?」
「飽きもしないけれど……」
 周子が何も口を出さないのが私は、何となく気になつて無理にでも良子と話さなければならない気がしてゐた。
「ぢや、明日あたり皆んなで何処かへ遊びにでも行かうかね。」
「えゝ。」と、良子は、笑つて生返事をしながら立ちあがつた。――そして良子は、栄一を伴れて外の方へ涼みに出かけた。
「汽車にでも乗つて、日帰りが出来る処ぐらひにでも行つて見ようか。」
 私が、そんなことを云つても周子は黙つてゐた。そして彼女は、わざとらしく欠伸などして私の反感をそゝつた。
「口の臭い人となんか何処かへ出かけるのは御免だ。」と、彼女は、取り済して呟いだ。
 この間以来私たちは、それに就いての話は互ひにてれ臭さを抱いてゐるやうに一切口にしなかつたのだが、突然洒々と彼女からそんな言葉を聞くと私は、グツとした。
「…………」
「好い気になつてら!」
「何だとう!」と、私は唇を噛んで怒鳴つた。
「あなたは、自分ばかりを好い子にしたがると云ふ風な癖があるのね。良ちやんばかしぢやない、一体に誰の前でも、変な風に自分の妻をのけ者にするといふ風に、そして変に自分が他人に思ひやりがあるといふやうな思はせ振り……」
「何ツ、生意気なことを云ふない。さつきから癪に触つてゐたんだが、我慢してゐたんだぞ――」
「此方こそ……」
「キヽヽヽヽ。」と、私は歯ぎしりをした。「図々しい奴だ! 殴られるな。」
「殴つたりしたら!」
 彼女は、怖ろしく血相を変へて私の顔を睨めた。
「言葉の通じない国に来てゐるやうなものだ。……不便なことだ。」
「ぢや、喋舌るな。」
「喋舌らないや!」
 さう叫んで私は、彼女の頬をピシヤリと打つた。――そして、わざと憎々しく落着いて、横を向いて、魚のやうに口をあいて煙草の煙りを吐いてゐた。
 ……フヽンだ、皆んな何処へでも行つてしまへ、独りが一番静かで清々と好いや、皆んな出て行つてしまへ、俺は何ンにも喋舌りたくはないんだ、喋舌るのは面倒臭いんだ、厭だ/\面倒だア!
 そんな毒口をついたら、終ひには気狂ひのやうに暴れでもしなければ収まりがつかなくなつてしまふだらう……。
「フヽンだ。俺アお園さんのところにでも遊びに行かうかな。」
「よくも、打つたな……フン、何処へ行つたつて相手になんてなるものがあるもんか!」
「キ……、未だ生意気なことを云ふか。」
 私が、手を振りあげやうとすると彼女は「今度やつたら、あたしが暴れるぞ。」と、あたりに遠慮して声を殺して云つた。――そして、嫉妬の気色でもなく、たゞ沁々と私を見さげるやうに、
「あなたは――あなたは、毎晩この頃変に機嫌好く酔つてゐたわね、フツだ。……気をつけろ、馬鹿! あたしが一寸とでも傍にゐなくなる
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