もさうだなア。」
「でも、あなたは幼《ちいさ》いうちは方々へ出かけたことがあるでせう?」
「いつか一年ばかりお前と一処に熱海に住んだ位ひのものだよ。」
「だつて、あれは――」と、彼女は、情けなささうに笑つた。
「でも、家にゐるよりは好かつたと云つてゐたぢやないか?」
「批べればさうかも知れないが……」
「ぢや、今の東京は?」
「知らないわよ。」
笑ひながらではあつたが、さう云つた時に彼女は、微かに溜息を衝いたらしかつた。――彼女は、どんなに金銭には貧しくとも己れの生家の、貧しきが為に少しも純情を失つてゐない同人達の方が遥かに好もしい、初めはありふれた女らしい生活上の豊かな夢を抱いてこの男と結婚したのであるが、片鱗にもそれに報はれたことはなく、そんなことよりも第一食物などと来たら生家のそれよりも貧弱で、それをまた一同が不平な顔もなく百年の習慣のやうにボソボソと喰ひ、稀に珍らしい料理などが出ても誰も味などに注意する者もない、気の利いた料理の名前などは彼女程度にも知る者はなく(実際彼女は、結婚当座こゝの食物は碌々喉に通らなかつた――先づ彼女はそれを軽蔑した。)、そして、口の先きでは(死んだ父以外の者は)妙に厳しさうな掟を守り、その癖内々では同人同志でも嘘のつき合ひをしてゐるやうなこの種の家庭に沁々と幻滅を感じた、加けに此方の非ばかりを鳴したがる意地悪るな連中……。
そんなやうな意味のことを言外に含めて、時々遠廻しに私を詰つた。まつたく不自由に不公平な、悪い意味で古風な(例へば私は、結婚後に他の家人と別居するなどといふことが心苦しかつた。)頭の所有者である私は、彼女からでも吾家の非難を聞くと直ぐにムツとするのであつた。が、一寸と言葉を遠廻しにしてやると、諾々としてゐる私のその場の呼吸をすつかり呑み込んでしまつて、様々な手法で常に彼女は私に復讐をしてゐた。たしかに私は、その場の頭が遅鈍なのである。そこでは少しも気附かない、その癖恬淡とはおそらく反対に、一週間も経つてから漸く知らずに聞いてゐたことに疑念を持つて、と、突然ムツとして、時にはそこで何故自分は今ムツとしたかを当の相手に説明して返つて屡々冷笑されることが多かつた。だんだんに彼女の手法は巧妙になつて、滅多に私はそれに気附くことはなかつた。だから今では、稀にずつと後になつてそれに気附いても、怒れば如何にも己れの遅鈍を今更披瀝するやうな臆病さに囚はれたり、惨めな敗北の矢を吾手で吾が胸に突き刺すやうな痛さを怖れて、返つて卑屈に、純情を殺さねばならぬやうな破目に陥ちてゐた。――彼女の純情を傷つけたのも亦私なのである。……様々なかたちで彼女から復讐されても仕方がない程私は、今迄多くの意地悪るを施してゐるのだ。二人のそんな感情を私は、沁々と嘆くことがあつた。だから私は、彼女の私に対する忠実な方面を一層見極めることで、云はゞあんな寂しさから救はれようと努めた。
――俺の口の試験をして呉れるのは今では彼女ひとりだ。
私は、そんなことに、あのやうな感傷に走り、感謝を抱き、得難き親密を感じ、時には秘かに涙ぐましく胸を悸はせ、好もしき伴侶とさへあがめた。
私は、上向けに寝転んで、うつかりするとこの頃さういふ新しい癖が生じた――知らずに口をあいてゐた。……祖父は、父と同じく突然脳溢血で倒れたのであるが、死んでから大きく口をあいてゐたので、傍の者が交る交る顎をさすつてそれを閉ぢさせた。自分もすゝめられたが倒々手を触れなかつた――。
「その罰かな!」
ふと私は、自分の新しい癖に関聯なくそんなことを思つて首を振つた。
……「そんな風になるとね。」と、周子は、さつき私が何か話し出したことに就いての続きらしく、呑気さうに良子と語らつてゐた。「――一番気になるのは口のにほひなんだつてさ、自分の!」
おや、俺のことかな! ――微かに私は、ギクリとした。
「へえ! 変ね。」
「あたし始めは冗談かと思つてゐたら……」
「冗談でせう。」
「さうかしら?」
「いや……」と、私は云ひかけて彼女達があまり軽々しく話し合つてゐるのに気が引けて、仕方がなく笑ひを浮べてゐた。(それにしても周子の態度が何だか可笑しいな、あいつはそんなに軽い気持なのかしら? それならば何もこの間うちから良子の前などを慮つて、あんな不便を忍んでゐる程のこともなかつたか?)――私は、他人《ひと》の前では、外出の時妻から帽子をとつて貰ふのさへ好まなかつた。他人の前でなくても、妻から着物を着せかけて貰つても背中がムズ/\するのであつた。
私は、二人の顔をそつと見比べて、若しこの二人が自分の妻の候補者として並んでゐるのだとすると、果して自分は何方を選むだらうか、良子の方が美人かな、多少は? いや、よく/\見るとさうでもないかな? いや、さうだらう、
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