ふのは……」
 隱岐は、さすがに蒼ざめて唇を震はしてゐた。長い間、知つて知らぬ振りを保つてゐた細君も細君だが、何時、どうして彌生はそれを口外したのか? と彼は降伏した。
「學校のことだよ。彌生が止めてしまつたのはお前のせゐぢやないか――」
 隱岐は、彼女の學校の費用ぐらゐは續けてゐるつもりだつたが、はなしが大それた問題に陷ちてゐるので、二の句もつげなかつた。
 うつかり四角張つたことを云ふと、今では彌生までが、それを叫び出す怖れがあつた。



        二
「このカーテン何處に掛けるんだと思ふ?」
 彌生は切りと圓い枠の中に針を動かしながら、妙に意地惡るさうな眼でちらりと隱岐を眺めた。隱岐はいちにち坐り續けた脚を炬燵の中に伸々とさせるのであつたが、折々爪先が彌生の膝がしらに觸つた。うつかりすると、平氣で彌生は無禮なことを云ふので隱岐は決して自分からは動かなかつたのであるが、如何にも邪魔ものが這入つて來たといふやうにぶつぶつ云ひながなら[#「云ひながなら」はママ]、彌生が窮屈がる度にひとりでに觸れて來るのであつた。それ位のことは彌生も無意識で、慌てゝ逃るやうな動作もせず、隱岐の方も無關心を裝つてゐたが、だが彼はその度毎に颯つと全身がしびれるのであつた。――彼は仰向けのまゝ、胸の上に立てかけた本を熱心に讀んでゐる容子だつたが、意味などは解りもしなかつた。
「さあ、何處にかけるのかね、俺の書齋の窓かしら?」
「ふツふ……、違ふわよ。このベツトの横に幕のやうに引くんだわよ。何時、誰に這入つて來られても安心のやうに――」
 と彼女は長椅子の上の鴨居を見あげた。その椅子は寢臺に變る仕掛けだつた。彼女等は、いつも二人で、そのまゝ炬燵に眠つたりした。
「この子は、ほんとうに寢像が惡いんだからな。」
 と細君は自分がいつも手傳つて慥へて[#「慥へて」は底本では「[てへん+慥のつくり]えて」と誤植]やる彌生の顏を凝つと眺めた。彼女は餘程彌生を自慢の種にしてゐて、殊に近頃は勿體振つて化粧のことまで兎や角と世話を燒き出し、何時でも相當につくつて置かないと、表へ出る時が如何にもケバ/\しくなるからなどと工夫を凝して、彌生が湯から上つて來ると、どういふのが一番似合ふかしら――と、人形の顏でも慥へる[#「慥へる」は底本では「[てへん+慥のつくり]える」と誤植]えるやうにして、白くして見たり、ドーランをはいて見たりするのであつた。つくつた上で、つくつてゐないやうに見えなければならない――などと注意して、睫毛に耽念なブラツシユをあてたり、眉を剃つて見たりするのであつた。
「あら……どつちがよ。」
 彌生は、細君を睨めたりしたが、細君は、その表情の動きと、化粧の具合を驗べて、自分の畫でも眺めるやうに眼を据えてゐた。
「ねえ、ちよつと起きあがつて見て呉れない、これぢや少しあくど過ぎやしないかしら?」
 彼女は隱岐を促した。彼は、顏の上に、ばつたりと本を伏せて
「俺には解らないよ。」
 と云つた。
「……、あたしの、あの、フアコートを着せてやり度いな。」
 細君は泌々と呟くのであつた。――彼女は、隱岐のアメリカの友達から贈られた可成り上等らしいビーバーの外套を持つてゐたが、殆んど手をとほしたこともなく、餘程以前から手もとには無かつた。何も彼も釣り合ひはしないから――と、さすがに細君は照れて、あきらめてゐたのであるが、この門構えの家を見た最初に、忽ち、それを着て外出する姿を浮べたのである。
「たつた四十圓で持つて來られるんだもの、何でもないぢやないの。」
 と彼女は口癖にして、隱岐を病ませてゐたが、一向それほどの段取りもつかなかつたのである。
「自分はちつとも欲しくはないんだけど、やあちやんに着せてやり度いのよ。」
「欲しいなあ……」
 彌生は深い息を衝いて憧れに滿ちた眼を輝かすのであつた。
 そのはなしになると何時も終ひには喧嘩が起つて、聞くに堪えない罵倒を浴びながらほうほうの態で逃げ出さなければならないので、隱岐はフアコートと聞くと慄然とした。
「コートだけあつたつて仕樣がないさ。第一、こんな陽氣の好い田舍の街を歩くのに、あんなものを着て歩くのは物々しいよ。」
「それが氣に喰はないのよ。理屈をつけるのは止めて欲しいわ。あなたはね、實に――」
 と細君はそろそろ昂奮した。「手前勝手な人間だわね、男らしくないよ。ひとを悦ばせて、結局自分も悦ばうといふ風な大きさぐらひは、誰だつて持つてゐるのが普通よ。實に、低級な自分勝手しかしらない憐れな人間だわ。」
「左うよ/\!」
 と彌生も眞面目になるのであつた。「自分で自分をごまかしてゐるのよ、狡いんだわ、そして度胸が無いんだ。」
「だから、何事につけても、やるならやるで、思ひ切りやり通すといふことも出來やしないぢやない
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