痴日
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)端《はし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)寢|風呂《バス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、底本の誤記など
   (数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+造(しんにょうの点は二つ、「告」の縦棒は下に突き抜ける)」、129−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぼそ/\と
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        一
 頭の惡いときには、むしろ極めて難解な文字ばかりが羅列された古典的な哲學書の上に眼を曝すに如くはない――隱岐はいつも左う胸一杯に力んで、決して自分の部屋から外へ現れなかつた。活字の細いレクラム本に吸ひつくやうに覆ひ被さつたまゝ、終日机から離れなかつた。だが、やがて運ばれる晩飯を下宿人のやうにひとりでぼそ/\としたゝめてから、何か吻つとしてラムプを眺める時分になると、急にあたりが寒々として來て、暖い部屋が慕はしくなつた。
「しかし……」
 彼は激しく頭を振つて、餘程ちゆうちよするのであつたが、ふらふらと渡り廓下[#「廓下」はママ]を踏んで明るい部屋の方に出向かずには居られなかつた。でも彼は、今度は成るべく活字の大きさうな二三册の部厚な洋書と、ウエブスタアと更に英和辭書を抱え込んでゐた。――そして彼は、襖に手をかけぬうちに
「あけるぞ?」
 と唸らずには居られなかつた。一度、うつかりと默つて襖をあけた途端に、
「きやあツ……」
 といふ叫びといつしよに彌生が炬燵の中から跳ねあがつて、騷動だつた。彼女は夢中で毛布にくるまると――厭々々!と笑つて喚きながら、押入の中へ飛び込んだ。彼女が裸體だつたことよりも、隱岐はその騷ぎに驚いてしまつた。かねがね彼の細君は、畫を習つてゐて、追々と人體の素描に移つて、彌生をモデルにしてゐることは薄々隱岐も知つてゐたから、裸體像にはさして驚きもしなかつたのであるが、あんまりモデルが大袈裟に仰天して狼狽するので、返つて飛んでもない痴想に攪亂されさうだつた。
「まあ、眞ツ闇で――何も解らないわ、端《はし》を少し、開けてよ、お姉さん……」
 押入れの中で彌生は、切りと、くすくすとわらつてゐた。二枚つゞきの純白の毛布が、たぐりきれないで、押入れの端から長い裾を長椅子の下までのこしてゐた
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