懐ろの中へ飛び込まれてしまつた。何故俺は口を慎しまなかつたのだらう。」
 私達が、鼻と鼻とを衝き突けて争ふてゐると、
「何て、まあ煩い漁色漢達だらう。あゝ、面倒だ、灯《あか》りを消してやれ!」
 とヘレンが叫んだかと思ふと、忽ち部屋は真暗闇になつた。
 二人は、思はず、アツと叫んで、床に四ツん這ひになつた。そして口々に、俺はダイアナの犬だとか、俺はファウスタスの馬だとかと呟きながら秘薬の在り所を訊ねなければならなかつた。
「暗いうちに、ひとりで野蛮な踊りを踊り抜いて、背中の擽つたい南京豆を振り落してしまはなければならない。」
 と呟きながらヘレンは軽妙な靴音をたてゝ彼方此方と飛びまはり始めた。
「ヘレンは、一体何んな踊りをおどつてゐるのだらう?……この靴音で想像するやうな踊りを、わしは未だ嘗て明るみのうちで見たこともないが……」
 真夜中のやうな静寂の中で、教授が斯う唸つた後には、全くその靴音から娘の動作や表情を想像するのは困難である。恰も小声で何事か囁くかのやうな微妙な甘美さに満ちた靴の音が響いた。
「あゝ、俺は、この儘で満足だ……」
 私は、一度ソフアの上に這ひあがつたが再びドタリとだらしない音を立てゝ床の上に転げ落ちると、絞殺された悪魔のやうに下向にのめつてしまつた。(神が、悪魔の屍を上向きに置かざらしめぬのは、神が、吾らをしてメフィストの奴僕たらざらしめんが為の誡めなり――と神学者ヨハンガストが、バジル神学校でファウスタスに会見後、悪魔に絞殺された彼の屍の位置を指して、その談話録の中に述べてゐる。)
 絶望の盃であをつた酒の酔が、にわかに目眩ましい渦巻になつて私の五体を得体の知れぬ恍惚の空に導いた。私は、ヴェニスの空中で三態の悪魔の姿体の見得を切つたファウスタスの夢を追つた。……さあ、そこで、真つ倒まに、水の中へなり、沼の中へなり、転落するのを待つばかりだつた。
 私は、静かに瞑目した。生温い風を切つて円筒のやうなものゝ中を一散に転落して行く気合は、はつきりと解るのであるが、一向奈落の底に達しないではないか――などと遠くに娘の靴音を聞きながら考へてゐると、不図眼蓋の裏がぼんやりと明るくなつて来た。
 シエードの周囲に氷柱《つらら》のやうなヒラヒラがついてゐる古めかしい台ランプが点つてゐるのだ。私は永い年月の間田舎のうらぶれた村の書斎で、このランプを点し、このやうな眼つきをして、未だ見ぬ花やかな世界に憧れながら孤独の歌をうたひつゞけた。あの、ランプではないか。私は、破れかゝつた重く憂鬱な手風琴を取りあげると、重味を補ふための皮のバンドを十文字に背中に結びつけて、「奴隷の夢の歌」や「インヂアンの嘆きの歌」を弾奏した。そして、また「七つの星の歌」や「錬金鍛冶屋の労働の歌」や「翼ある馬の歌」などを歌つて情熱の空を駆け回つた。嵐の晩となると「メフィストフェレスの登場歌」や「ジークフリード遠征の歌」を高唱して奇怪な幻と闘つた。また私は「早稲田の歌」や「バッカスの行進曲」を弾奏し、意気に炎え、終には狭小の可見世界に居たゝまれなくなつて、春先きの或る日、歓楽をもとめて蜂のやうに都へ登つた。
 断末魔の瞬間には、過去の様々な経験や人物を一時に思ひ返すといふ話であるが、私もこの時、今にも息が止絶れてしまふかと思ふと、そんな他愛もないランプの周囲に集つた過去の様々な自分の憧れに満ちた表情が次々と現れては消えた。薄暗いランプの蔭で、おまけに飾りの氷柱がちか/\と光りを反射するので、表情の凹凸だけが暗闇の中に、明暗の線がくつきりと強い大写しになつてぼんやりと浮び出るばかりであつたが、孰れもあの村の部屋にゐたままの自分の姿だけである。それにしても様々な憧れに満ちた表情の動きは同じ顔かたちでありながら何と底深く洞ろな相違に充ちてゐることであらう! などと感心しながら私は、今床に打ち倒れてそんな夢を追つてゐる自分の表情を想像した。

     四

 次の晩私は机の前で、何うしても先へ進むことの出来ない書きかけの小説原稿を破き、
「あゝ、もう今年も暮れる。」
 などと呟いてゐるところに、友達の酒木と鱒井が訪れて、
「これは日本一の美酒である。」
「味つて、賞めて貰ひたい。」
 と一本の酒壜を差し出した。
「何といふ名前の酒?」
 と私が訊ねると、
「メイコン、迷へる魂、迷魂。」
 と得意気に答へた。
「何うして君はそのやうな銘酒を手に入れたの?」
 私は、ヨハンガストもどきの口調で質問すると、二人はそのいわれを詳さに説明したのだ。私は納得して、共々に健康を祝福する盃を高く挙げたのであるが、それはまあ何といふ不思議な酒であらう、常々強酒をもつて自認する私が、三つ目の盃を挙げた時は、もう魂が何処かの空へ飛んでしまつてゐた。
 二人は、私が近頃ファウスタスにのみ現を抜かして、悪魔に絞殺されかゝつてゐるのを感知して、バルザックその他の自然派の作物を読むことの忠告と、近いうちに共々に小旅行を試みようではないかといふ相談に来たのであつた。
 私は、それらの事を非常に賛成して、更に迷魂の盃を重ねた。そして、もう今日限りだと称して私は、ハインリッヒ・ヒルゼルの書中にあるファウスタスの、各国の朝廷を遍歴する冒険旅行談を試みたさうであるが、間もなく私は熱に浮されて、ボロ/\の部屋着のまゝで散歩に出かけた。呪はれた私は、二人の友達と何処で別れたのか更に記憶がなかつた。
「先生、私は迷魂と称ばれる銘酒を服用して、適度に酔うて来ました。間もなく私は自然派の作物を携へて旅行に出かけます。――今日は、お名残りです。」
 そんな夜更けでも未だ研究に没頭してゐるマイアム氏のスタディオを私は訪れてゐた。
「おゝ。恰度好いところに来て呉れた。ヘレンが助手になることを承諾して、さつきから仕事にとりかゝつてゐるところだよ。」
 云ひながらスヰッチを入れると、目の前のスクリーンに一個の人体が現れた。レントゲン光線の中に現れた、その人体はスパルタ風の体操を始めてゐた。
 マイアム氏は、やがてこれを映画に完成しようと心を砕いてゐる前の晩もあの酒場で私と出遇つたあのモノクルの教授である。自分は撮影技術のことばかりでなく様々な骨格の運動状態を見極めなければならないのだ。やがて自分の期する撮影機が完成すれば白昼凡ゆる場所に野外撮影に出かけて一切の生物の運動上の骨格状態を撮影しようと思つてゐるのだが、それまでは、この当り前のレントゲンで種々なモデルを頼んだ上で、標本を撮つてゐるのだが、その標本画のうちに未だ酔漢の運動状態だけが不足してゐる――と彼は兼々私の酔態が稀に見る奇体なものであるからモデルになつて欲しいと望まれてゐた。そして私もこれまで幾度か酒をあをつて、この不気味な光線の中に立つたのであつたが、何時の時でも私はいざといふ段になると酔が醒めてしまつて失敗に終つてゐた。
 スクリーンの人体は、スパルタ体操を終ると、右手をあげて此方をさしまねいた。
「ヘレンが君を招んでゐるんだよ。」
 G氏が斯う云ふので、私がスクリーンの向ひ側に入つて見ると運動シャツ一つになつて立ちはだかつてゐる綺麗な彼女に出遇つた。
「まあ、好く来て下すつたわね。」
 彼女は私の姿を認めるがいなや、いきなり私の首に抱きついて悦びの接吻を浴せた。私が斯んな好意を彼女から享けたのは初めてゞあつた。
「妾、もうさつきから心細くつて仕方がなかつたのよ。」
 と彼女は私の耳にさゝやいた。「あの先生は、たゞの変質者に違ひないわ。活動写真を撮るなんてことは皆な嘘ぢやないのかしらと思ふわ。だつて、妾を斯んなところに立たせて、踊らせたり、体操をさせたりして、自分は向方側で黙つて見てゐるだけなのよ。」
「技手は、今夜誰がやつてゐるのだらう。」
 私が、それを務める時もあつたので訊ねると彼女は、
「そんなこと誰だつたか気がつきもしなかつたけれど……さつきから彼の人つたら、昨夜《ゆうべ》妾が酒場で灯りを消してから、何んな踊りを踊つたか、それを是非見せて呉れツて諾かないのよ。」
 と情けなさうに述べたてた。私は、G氏が彼女の云ふやうな平凡な変質者だなどとは思ひもしなかつたし、だから、先生は決して娘ばかりに興味を持つてゐるわけではない、僕の酔態に就いてなどもこれ/\の関心を持つてゐると説明しようかと思つたが、今の彼女の言葉に私は強く胸を打たれて、
「そして踊つたの?」
 と胸を震はせて訊き返さずには居られなかつた。
「だつて別段踊り様も何もありやしないわ。妾は、たゞ昨夜だつて、あの時、出たら目の脚踏みをして南京豆を振り落してゐたゞけのことなんですもの。」
「…………」
 私はG氏の胸中を推察した。そして、闇に描いた夢を飽くまでも実現させようとするG氏の執心に同情と敬意を払つた。
「たゞ、斯うやつたゞけなのよ――と云つて妾は、仕方がないから烏賊が泳ぐ見たいに体をくねらせたり、縄飛びをする時のやうに飛びあがつたりするんだけれど、お前は私を欺さうとしてゐるなんて云つて、何うしても信じないのよ。」
「……ヘレン、近いうちに僕達と一処に旅行に行かないか?」
 私は、何う云つて好いか解らなくなり、胸苦しくなつたので話頭を転じた。
「えゝ、行くわ、妾、あの先生のモノクルから逃れられるんなら何処へでも行くわ。」
「さうか――」
 と私は腹の底で唸つた。そして私は秘かに氏のモノクルを盗みとつたかのやうな怖れを覚えながら、
「ぢや約束しよう。温泉のあるスキー場へ行かうぢやないか……」
 と誘つた。
「えゝ、はつきり約束しませう、先生に聞えないやうに――。嬉しい!」
 とヘレンは思はず私の胸に顔を埋めた。
 スキーと云へば、さつきヘレンが泳ぎとスキーに就いて経験があるとG氏に云ふと、G氏は、おゝ自分は未だそれらの運動状態の標本も撮つてなかつた、それを頼むと云つて、本物のスキーを穿かせられて、幾通りもの姿勢や、また台の上に載せられて、水泳のポーズも撮られたところである――とヘレンは附け加へた。
 宇宙万有の真髄に向つて、学究の力をもつて、その神秘と闘はうとするのが念願であるG氏であるが、何うして斯うまで深く人体のことばかりに拘泥してゐるのだらうか、近いうちに質問して見なければならない――私が、フラフラとする脚どりでヘレンを抱きながら首をかしげた時、スクリーンの向方側のソフアで一休みしてゐたG氏が、
「ライト――」
 と、技手に命じた。
 灰白色の光線が私達の肉体を射透した。
「では、マキノ君、自由なポーズを示して呉れ給へ。」
 G氏は私に呼びかけた。――いつの間にか私の「迷魂」の酔は醒めかゝつてゐたが私は、もうこれで当分G氏とも名残りか! などと思ひながら、
「オーライ、サー。」
 と答へると、光茫の圏内を手を振り脚を挙げしながらグルグルと歩きまはつたり、四ツん這ひになつてヘレンに飛びついたりした。
 すると、前夜の酒場の場合と全く同様なランプの幻が私の眼蓋の裏にあり/\と浮びあがつて来た。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説 第二輯」芝書店
   1932(昭和7)年5月10日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋社
   1931(昭和6)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
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