なって、見えるじゃないか!」
 僕は、仕事場の壮麗な遠望に魂を奪われて固唾《かたず》をのんだ。僕は、振りあげられた槌《つち》が、打ち下され、更に打手の頭上に構えられた時分に、打たれた音がこっちの耳に響いて来るほどの距離であるにもめげず、かがりの火の明るさをすかして、彼らのどんな微細な動作をも見逃さぬように努めた。
 月光の、静寂な大気の――無限大に青白いスクリーンの中央に、世にも不思議な巨大なランプの月の傘の如く八方に放った光芒《こうぼう》が澄明な黄金の輪を現出して、その一区劃の中ばかりが戦闘準備のように花々しい活気を呈している面白い光景に僕は魅了された。
 ……すると――おそらく僕が余りに凝然と眼を視張って眼ばたきもしないでいるために起る視覚の錯誤なのだが、その巨大な提燈は、活躍を続けている花々しいシルエットをはらんだまま、スーッと音もなく滑走し、宙に浮んで、小さく、明るい月に変った。それでもそこに立働いている人たちの姿は相変らずはっきりと見え、丸源の太郎、二郎、三郎の顔かたちはおろかどんなことを話しているのか、その口の動きで想像も出来るくらいにまざまざと判別出来るのだ。
「月のあるうちに急いで置かないと、後はかがり火だけじゃ仕事が出来なくなるからな。」
「そうですとも、お父さん、七郎丸の仕事なら私たちは昼夜の差別も知りませんよ。」
 いろいろと僕は彼らの会話を想像していると、(ああ、僕は夢に駆られ出したのを自ら気づかなかったのか!)丸源の太郎、二郎、三郎を、眼ばたきをして見直すと、驚いたことには、その三人は、僕が、「国境の丘」まで見送ったところの、あの三人ではないか!――彼らは、旅の第一夜をあんな処であんな風に過しているのか。あのかがり火を村里の灯とでも思って慕い寄ったことなのだろう。
 Aは、いまだに、「あれから、これへ」を口吟《くちずさ》みながら、それでも懸命に槌《つち》を振りあげている。Bは、炎《も》えあがる焔《ほのお》の傍らで時|外《はず》れにも弁当を喰っている。Cは、うつむいてばかりいるので仔細な顔は解らないが、物差《ものさし》を執って、一心に木片の寸法をとっている様子である。
「第一夜からして、あの勢いでは頼もしくはあるが、一言その労を犒《ねぎら》う言葉だけでも贈ってやりたいものだな。」
 僕は三人の無銭旅行者のための幸福を祈った。しかし僕は祈るべき言葉を持たなかったから、Bの恩師の言葉を引用して、ひたすら彼らの旅路のまどかなるべきを希《ねが》うのであった。
「汝らの旅は全世界へ向っての遍歴であり、空間のあらゆる空所において営まれつつある全建造の視察であり、万物の物理的復帰を包括しながら、壮麗なる無限大へ向って進むものである。」
 かく祈りながら僕は彼らに向って、胸の切なさをつかんでは投げ、つかんでは投げつける心算《つもり》で、その通りに腕を振り動かせているのであった。胸先を握って、拳《こぶし》をつくり、空間に腕を突き出しては拳を開くのであった。
 そうこうしているうちに向方《むこう》の円光の中には様々な人影が次第に増して来て、焚火のまわりをグルリと取り巻いて、景気の好い仕事を見物している。彼らは、口々に悦《よろこ》びの言葉を発しているらしい。
「おやおや!」
と僕は、もう一度眼ばたきをして眩《つぶや》いた。その人だかりの中には七郎丸の祖父と父親が紋付の羽織を着て控えている。僕の父親も同じような姿で、酷《ひど》く武張《ぶば》った顔つきをしている。祝着《マイハイ》を着た若者連が焚火のまわりを踊り廻ったりしている。――僕らが既にこの世で永久の別れを告げたはずの祖父たちが、そんな風に現れているので僕は幾分馬鹿馬鹿しくもなったが、彼らの姿が現世のそれと寸分も違《たが》わず、そして、あの丸源たちと一緒になって談笑もしている様子を見ると、僕は別段そこに何の不思議もないあり得べきことを見ている通りな心地になって、何ということもなく、
「まあ、好かった。」
と思ったりした。
「有りがとう――」
 僕は七郎丸に肩を敲《たた》かれてわれに返ったが、向方の仕事場の明るみのうちに見た幻が、なかなか幻と思い切れなかった。――七郎丸は、僕の肩を敲《たた》きながら続けた。
「有りがとう――俺は、君が、そこでそうして丸源の仕事を眺めている怖ろしく真剣な姿に感謝せずには居られない。俺は、君の、その情熱の溢《あふ》れきった素晴しい姿を永久に忘れることは出来ないだろう……もうこっちが苦しい、卓子《テーブル》に戻ってくれ。」
 こういわれたので僕は、その自分の姿勢を験べて見ると、自分は窓|枠《わく》に片脚をかけ、右の拳を月光の中に、悪人の脇腹を突いた荒武者のそれのように力一杯に突き出し、上体を虎のように前方に乗り出し、そして左手の拳で自分の頤《あご》を突きあげているままの生人形に化していたのである。
 ベルが鳴った。
 来訪者だ。
「どなた?」と七郎丸が通話口に顔をあてて訊ねた。
「エレベーターを降して頂戴な。」
 僕の妻の声だった。
 ここの部屋は「係員以外の出入厳禁」であったから、係員である僕たちは部屋に戻ると縄梯子《なわばしご》を捲《ま》きあげておかなければならなかった。また荷物を携えている来訪者は、係員にエレベーターの下降を乞《こ》うのであった。
 滑車に綱を垂らし、綱に木製の箱を結び、これを釣籠《つるべ》仕掛で、部屋の中から人力で捲きあげるエレベーターである。人力ではあるが、捲き上げの部所には大小二個の歯車がつけられ、大輪のハンドルを把《と》って捲きあげる具合になっていて、あたかも自転車の理に似て、機械は与えられたる動力の幾倍かの仕事能率を現すわけだったから、仮令《たとい》酔漢であろうともこのエレベーター係りは容易《たやす》く果されるわけだった。
「おひとり?」
「いいえ、大勢――マメイドさんも一緒よ、そこで出遇ったの。」
 そこで僕は、七郎丸に代って通話口を覗《のぞ》き込んで唸《うな》った。
「どんな意味であろうとも僕らに反感や不快を抱いている者があったら、今夜だけは失敬する。」
「お神楽《かぐら》の稽古《けいこ》の邪魔になって?……遠くから皆な見えたわよ。」
「どうしようか?」
と僕は七郎丸に計った。
「見られたら見られたで、決して臆するところはないよ。――降そう。」
 鍵《かぎ》を外すと、ゆるやかな音をたててエレベーター・ボックスが静かに降りて行った。
「御存知でしょうが、ひとりずつでなければいけませんよ。」
「六人も、で、大変じゃありませんか?」
「御遠慮なく――。乗り込む度《たび》にベルをおして下さいよ。」
 ベルが鳴った。
「オーライ。――それっ!」
と七郎丸が合図すると、二人は、至極もの慣れた動作で、
「ヘッヴ・ハウ! 捲け捲け! ヘッヴ・ハウ・ハウ捲け捲け」と掛声勇ましく、吊籠《エレベーター》を引きあげるのであった。
 最初に箱から現れたのは、登山袋を背にして片手に醤油らしいものの瓶や葱《ねぎ》の束などを携えているBだった。(B・R・Hなどの若者は僕の妻と弟の友達で其処《そこ》の僕の村の住居で共和生活を続けている同人である。次々のR・H・妻、そして弟らも一様に重そうなリュック・サックを背にしていたことを先に述べて置こう。)
「今日は荷車を曳《ひ》いて町へ行き、あなたの本を大方売却しましたよ。」
「そいつは酷《ひど》い。あれらの書物は僕の生命についで――」
と僕は赤くなって詰問しようとすると、次のベルがなって、再び僕らはハンドルを執らせられる――と、Rが、蓮根《れんこん》や牛蒡《ごぼう》を抱《かか》えて現れ、
「あなたの時計を質屋に預けて弾丸を買って来ました。当分肉類の心配はありません。」
と申し立てた。Rは鉄砲の名手で、常々僕らを鳥をもって養っていた。
「ああ!」
 僕は悲鳴をあげた。「あの時計がなくなったら僕は観測台の仕事が……」
「僕はガソリンを買って来ました。これで当分の間町通いにオートバイが使えることになりました。どんな類いのあなたの用事でも一時間以内で果せるでしょう。」
とHが、モビロイルのブリキ罎《びん》を僕の目の先に誇らかに突きつけた。
「そして、その資金は?」
 僕は痛い胸を押えて眼を視張ったが、答えを待つ間もなく、次のベルで、
「兄さんだけが着物を持っていることもなかろうと相談して、……」
「その先は聞かすな。俺は悲しくなる。」
 僕は弟に向って激しく手を振った。なかなかの洒落者《しゃれもの》である僕は着物を奪われてしまったかと思うと泣きたくなるのであった。が泣く間もなく、パンの棒を小脇に抱えた妻がマメイドに続いて現れ、
「あなたは、否応《いやおう》なく、当分の間は、その装《なり》でいなければなりませんよ。」
と宣告を与えた。それを聞くと同時に僕は一途の嘆きがこみあげて来て、
「ああ、どうしよう? どうしよう?」とばかりに声をたてて泣きくずれてしまった。
 一同の者は僕の女々《めめ》しい醜態に接して唖然《あぜん》とした。何故なら僕は常々所有の物資に関してはおそらく恬淡《てんたん》げな高言を持って彼らに接していたからである。
「何ぼなんだって、この身装《みなり》でこれから俺は毎日を送らなければならないなんて……」
「皆さん。」
と七郎丸がいい放った。「安心して下さい、マキノ君は今夜は常規を外《はず》れた或る歓喜に酔っているがために、思わずも感情が不思議な処へ外《そ》れてしまったんです。彼ばかりとはいいません、この私も――」
「七郎丸さん、あなたもお酒を飲む人なの?」
「そんなことは……」
と彼はそれとなくおしのけて、「七郎丸」に関するゆくたてを熱弁をもって吹聴《ふいちょう》した。
「御覧なさい。船は既にあの通りの花々しさを持って造られつつあります。『七郎丸』が海上に浮び出ると同時に、諸君は、これまでの共和生活を挙げてわれらの船の上に移して下さい。」
 この演説を聞くと、一同の失業者連は手に手に携えているものを思わず高くさしあげて、
「嬉しいな!」
と叫んだ。
「はじめて解った。うちの人が、あんなことぐらいで悲しんだりするなどというわけはないと思っていたんですよ。」
と妻は胸を撫《な》でおろしながら僕の傍らに駆け寄って、
「その恰好《かっこう》はあなたにとても好く似合うわよ。誰も変になんて思う人はないでしょうから、平気でそれで働きなさいよ。」
といって胸に縋《すが》りついた。
「一体、その皆なの背中の袋の内には何が入っているのさ?」
 僕が訪ねると、一同は生徒のように声を揃《そろ》えて答えた。
「米。」
「町へ行って、お米を買って来たのよ。」
 ――妻はマメイドと連れ立って酒を買いに行くことになった。
 身軽だからというので二人を一緒に吊籠《エレベーター》に載せて、僕は、鍵を外しハンドルを執った。そして、徐《おもむ》ろに降って行く箱の調節をとるべくハンドルを廻しながら、
「たしか昨夜も、今朝もジャガ芋《いも》ばかり喰っていたかな。――道理で胸の具合が変挺《へんてこ》で、酒の利《き》き目が奇天烈《きてれつ》になったのかしら?」
 などと考えた。
 妻の口笛が、遠くに聞えた。
 部屋のうちは明るい談笑に満ちていてどれが誰の言葉やらも区別出来なかったが、誰かが誰かを、
「スリップス・ロップ!」
と嘲笑《ちょうしょう》したりしているのが、仕事中のエレベーター係りの耳に聞えた。



底本:「ゼーロン・淡雪 他十一篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
初出:「新潮」
   1930(昭和5)年3月
入力:土屋隆
校正:宮元淳一
2005年5月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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