は娘をそっと傍《かたわ》らに退けて僕に、コップの酒盃をさすのであった。
 僕は、決して道楽でやろうというのではなかったから、釣りの話になるとあくまでも七郎丸の忠実な弟子だった。――今日は、あんな理由で部屋を飛び出したのであるが、常々七郎丸は仕事に行く時にはこれを着けて行くと好いということを主張していたので、僕もさっきこの身装《みなり》のテレ臭さの余り娘にああいってしまったのではあったが、勿論《もちろん》、今直ぐ舟を出すからと聞けばこのまま出発するに違いないのである。
「僕はたった今君を探すために君の部屋に行ったところが……」
 七郎丸は何か息苦しそうに喉《のど》を詰らせて熱い手で僕の手を握った。「ああ、君に遇《あ》ってしまったらどう話をはじめて好いやら解らなくなってしまった。」
 ふと見ると彼の真ん丸に視張《みは》って僕の顔を眼《ま》ばたきもしないで見詰めている眼眥《めじり》から、忽《たちま》ちコロコロと球のような涙が滾《まろ》び出て、と突然彼はワッと声を挙げて僕を抱き締めた。僕は鍾馗《しょうき》につかまった小鬼のように吃驚《びっく》りした。七郎丸はそのままオイオイと声を挙げて泣くのであった。
「七郎丸!」
と僕も、理由も知らずに胸が一杯になって叫んだ。「誰がお前のような善良な人間をそんなに悲しませたんだ。事情は一切聞かないで好い。悪人の名前だけをいえ。」
「違う違う。」
 彼は、涙をのんで辛うじていい放った。「七郎丸の旗誌《はたじるし》を再び舟に立てることが出来る幸運に俺は廻《めぐ》り合ったんだ。」
 ――魚場の納屋《なや》の屋根に魚見櫓《うおみやぐら》というものがある。舟を持たない七郎丸は久しい前からこの展望台で観測係を務めていた。稀《まれ》には舟を借りて沖へ出かけることもあったが、舟主との間が面白くないので、彼は大方この展望台に籠《こも》って、天候の次第に依って幾通りかの旗をかかげたり、魚群の到来を村人に知らすサイレンのスウィッチを握ったりして、遣瀬《やるせ》なく腕を扼《やく》していた。僕のCは、実際には「落下の法則」を実験していたわけではなく、この観測室に来ると七郎丸の仕事の手伝いをしていたのであるが、例えば望遠鏡で見張りしている彼が、
「来たぞ、合図だ!」
と叫ぶと、僕はサイレンのスウィッチを下す、村人が涌《わ》き立つ、海上には忽ち目醒《めざま》しい活劇が捲《ま》き起る。
 そんな時には僕は面白くて思わずメガホンを執って荒武者たちに声援を浴せたりするのであるが、舟ばかりを欲しがっている友達の胸の中を思い返すと直ぐに僕も変になって、事務的に旗の上げ下しを手伝ったり、黙々として気象観察や潮流図の日誌を記したりするのであった。そして、ピザの斜塔の物理学者の助手にでもなったかの通りな冷たさに閉され続けたのである。二人は、魚見櫓の窓から、ただ強そうな顔を現して村の騒ぎを仔細《しさい》に見物するだけだった。
「おお、それは――」
 僕もそれより他は声が出なかった。そして二人は、互いの名前を呼び合って、手に手を執って踊っただけである。
 それから魚見櫓に駆け戻って亢奮《こうふん》状態がやや収ってから、
「で、ね、俺は君の家に駆け込んだのさ、するとドアには錠が下りていて――誰もいない。が、君の窓はすっかり開け放しになっているんで、庭から廻って、覗《のぞ》いて見ると、灯《あか》りは満々と点《つ》けッ放して、君の姿も見えないんだ。まるで大喧嘩《おおげんか》の後のようにあたりは散らかっているじゃないか……」
 などということだけを彼は語るのであった。どうして舟を持つ身になれたか、家名を実質上に取り戻し得ることになれたか――というようなことには触れもしないのである。僕もまた訊《たず》ねる余裕を持たなかった。
「だが、ふと気づいてみるといつも壁に懸けてあるそれ[#「それ」に傍点]が――」
と彼は僕の身装《みなり》を指差した。――「それが見あたらないので、こいつはきっと俺と行き違いになったんだろう、と思ったから慌《あわ》ててマメイドに引っ返して、張番をしていたんだが、その間の切ない気持といったらなかった。君の気配を外に聞くと娘はあんな風に飛び出して行ったんだが、俺は体中が無性に震えあがるばかりで動けなかったんだよ。そして俺は妙に落着いた口調で、君に、折角支度をして来たのに気の毒だったな――なんていったが、実はその恰好《かっこう》の君を見つけると俺は一層|嬉《うれ》しくなって、何にもいえなくなって、言葉を間違えてしまったんだよ。」
「この旗が再び海の上に飜《ひるがえ》ることになったのは何年ぶりなの?」
 いつからともなくそこの壁に掛っている『七郎丸』の旗誌を僕は、感慨深く見あげながら質問した。僕たちは、その旗に関しては七郎丸が大酔をした時に、たった一遍話材にした以外には、不断はいい合せたかのようにそれについては口を緘《かん》して僕も、見て見ぬふりをして来たものである。
「……で俺は、この部屋を舟に見立てて意気を鼓しているんだよ。ちゃんとここに、こう旗をおし立ててあるつもりで……」
 その大酔の時に彼がこんなことをいって、壁にある旗の前に腕組みをして立ちあがったことを僕は憶《おぼ》えている。
「それだけに情熱があれば、間もなくそれはほんとうの海の上に飜ることになるに相違ないよ。」
と、その時僕もいって、彼の傍らに並んだことを僕は忘れていない。
「そうなったら俺たちは『七郎丸』を共有して大奮闘をしような。」
「約束する。」
と僕は点頭《うなず》いた。「やあ、俺はとても面白い、ペガウサスに打ちまたがって雲を衝《つ》いて行くかのような気がする。」
 僕たちは「ひらひらと打ちはためく旗」の傍らに、(酔っていたから、ほんとうに部屋が舟のように思われた。)あたかもギリシャ彫刻にある『大言家の像』のように屹立《きつりつ》して、両手を拡げて海の歌をうたった。
「その時が来るまで俺たちは結婚しまいぜ。」
「勿論だ。俺には、あらゆる女という女は悉《ことごと》く怪物《メジューサ》に見えてならないところだ。俺はパーシウス(女怪退治の勇者)の剣を、ジウスに授かって……」
 だが、この誓言は、その後間もなく互いの和議を持って諒解《りょうかい》した。――二人が学校を出て(七郎丸は水産講習所)間もない頃の、印象の鮮やかな僕の記憶である。何でも、その晩は、二人とも怖ろしく亢奮して、東の空が白む頃おいまで、
「帆を挙げろ!」
「オーライ――」
「旗をたてて……、ランラ、ランランラ!」
 などと声をそろえて狂い廻ったのであったが、その時、二人で、
「朝の掲旗式!」
 で、「七郎丸」の旗を壁に懸けたのが、いまだにそのままそこにあったのだ。
 七郎丸は、それ以来引つづいて、この観測台に務め続けて来たのである。何故《なぜ》か僕たちは、その一度だけで、まるで痛いものを避けるが如くに旗に関する一言ずつの会話も取り交さなかったのである。
 一言弁明して置くが、僕のAは飲酒家であるが、七郎丸との交渉は大方僕のCのみである。僕らが大酔のあまりかかる超現実性を帯びた亢奮状態を露《あら》わしたのは、その凡《およ》そ十年近き以前の一夜だけで、今日まで僕たちの間では平調を脱《はず》れた音声すら一言だって交された験《ため》しもないのである。七郎丸の涙などを見たのは僕にとっては、さっきの居酒屋の騒ぎが空前の奇蹟に違いなかった。
「ねえ、七郎丸、あれはおそらく十年も前のことになるだろうな。今晩は、ひとつ旗に絡《から》まるお前の夢について……」
 語らないか――と僕が、静かに目を瞑《つむ》りながら徐《おもむ》ろに首を傾《かし》げると彼は、
「スリップスロップ!」
と唸りながら慌てて洋盃《コップ》を傾けると、立ちあがって壁の旗を取り下しにかかった。
「今急に、何もその旗を取り下さなくっても好さそうなものじゃないか。この祝盃は旗の下で挙げようじゃないかね!」
「君の見ている前で一度下すのだ――それ[#「それ」に傍点]から君、これをどうにでもしてくれ……思い出だけは勘弁してくれよ。」
「おお――船が動く動く!」
「動き出した動き出した! なかなか波が高いぞ。」
 僕も立ちあがると、二人とも怖《おそ》ろしく脚がフラフラとして止め難く、二人は一旒《いちりゅう》の旗の両端をつかんだまま、
「いや、まあこれ[#「これ」に傍点]は君の手で!」
「いけない、今夜とそして進水日にはどうしても友達である君の手で!」
「志はありがたいが、俺にはそんな形式張ったことは柄に合わないから!」
「だって他に人がないことは解っているじゃないか!」
 などと譲り合いつつ、酔いに酔った遠慮深いアメリカ・インデアンと美しいマイワイを纏《まと》った大男とは、牡丹《ぼたん》に戯れる連獅子《れんじし》の舞踊ででもあるかのように狭い部屋の中をグルグルと追い廻った。
(註一。スリップスロップ。――この間投詞は僕が若者間に流行させているもので、知らるる通り「汝の感傷癖を嗤《わら》うよ。」というほどの意味である。)
(註二。マイワイ。――これは豊漁の時に村中の人々に配布されるドテラ様の上着で、祝着と書いてマイワイと振り仮名すべきが適当であろう。多くは浅黄地《あさぎじ》にて裾《すそ》回りに色とりどりの図案にて七福神の踊りとか唐子《からこ》遊戯の図などが染出された木綿の長襦袢《ながじゅばん》のようなものである。祝着というても祝祭日に着るわけでもない。村人は薄ら寒い夕べの散歩時にも、部屋着にも、四季の別ちなく自由に着用している。余談だが、僕はアメリカ人である知合の一女性と毎年クリスマス・プレゼントの慣例を持っているのだが、去年の時は所持金が皆無で当惑の余り、七郎丸から貰《もら》った新しい祝着《マイワイ》に、貴女の国にては近頃|物数奇《ものずき》者間にてわれらが国の労働着がハッピイ・コートとやら称ばれて用いられている由なれど、これこそわれらが海辺の村の誠のハッピイ・ガウンなれば、試みに着用して茶友達の評を仰いで見給え! などと勿体をつけて贈り、絶大な感謝を享《う》けたことがある。)
 そんな風にしていい争っていたが、七郎丸は不意に手を離してじっと息を殺したかと思うと、片手の平を耳の傍らに翳《かざ》して、
「聞えるだろう!」
と力を籠《こ》めて囁《ささや》いた。
 外は隈《くま》なく冴《さ》え渡った月夜である。で、僕は和やかな波の合間に耳を澄して見ると、遥《はる》かの彼方《かなた》からカチン、カチンと頻《しき》りに響いている鑿《のみ》の音が伝って来る。僕は吸い込まれるようにその音の方に耳をそばだてた。
 あたりの漁家は既にもう一様に燈火を消して眠りに就《つ》いたらしい中で、浜辺近くの松林の傍らにある船大工の工房だけが夜業に励んでいるさまが窺《うかが》われた。その工房は屋根だけで周囲の囲いがなかったから、その上仕事場の前の広場に焚火《たきび》があがっているので、働いている人たちの姿がくっきりとシルエットになって浮び出ている。
「もうやっているのか?」
 僕は眼を視張って訊《たず》ねた。なんとも名状しがたい爽快な嵐《あらし》が僕の胸のうちには更に新しく火の手を挙げた。
「…………」
 七郎丸は深く点頭《うなず》いてから、重々しい口調で説明した。
「丸源はね、先々代の七郎丸の友達でね――半ば義侠的にこの仕事を完成してやるという意気込みなんだよ。この月のあるうちに大方を仕上げてしまうと、今日力んでいたが、まさしく取りかかったじゃないか。あそこには十五人ばかりの弟子が働いているけれど、八人までは丸源の伜《せがれ》なんだぜ。そろいもそろって屈強な舟大工さ。そらそらあの焚火の傍で何か叫んでいるらしい赤鬼のような老人が指揮者の丸源だよ。……どうだい。」
 焚火の炎が、月明の真中にともされた大提燈《おおぢょうちん》のように輝いて、働いている人たちの姿が、提燈の画になって見える。
「惜しい哉《かな》、声がとどかないな。」
「それは無理だ。」
「それが一層|輝々《こうごう》しい眺めと
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング