を脱《はず》れた音声すら一言だって交された験《ため》しもないのである。七郎丸の涙などを見たのは僕にとっては、さっきの居酒屋の騒ぎが空前の奇蹟に違いなかった。
「ねえ、七郎丸、あれはおそらく十年も前のことになるだろうな。今晩は、ひとつ旗に絡《から》まるお前の夢について……」
 語らないか――と僕が、静かに目を瞑《つむ》りながら徐《おもむ》ろに首を傾《かし》げると彼は、
「スリップスロップ!」
と唸りながら慌てて洋盃《コップ》を傾けると、立ちあがって壁の旗を取り下しにかかった。
「今急に、何もその旗を取り下さなくっても好さそうなものじゃないか。この祝盃は旗の下で挙げようじゃないかね!」
「君の見ている前で一度下すのだ――それ[#「それ」に傍点]から君、これをどうにでもしてくれ……思い出だけは勘弁してくれよ。」
「おお――船が動く動く!」
「動き出した動き出した! なかなか波が高いぞ。」
 僕も立ちあがると、二人とも怖《おそ》ろしく脚がフラフラとして止め難く、二人は一旒《いちりゅう》の旗の両端をつかんだまま、
「いや、まあこれ[#「これ」に傍点]は君の手で!」
「いけない、今夜とそして進水日
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