もは気の利いた細君であるのにその表情は何故か飽くまでも頑として、むつと唇のあたりが尖つてゐるのであつた。
 その妻の姿では、寧ろ私の方が気嫌を損じてしまつた。
「奥田林四郎は、何うしましたか?」
 倉が訊ねた。
「そんな人、知らないね。」
「昨日、あなたを訪ねて東京から来た人さ――作家ださうぢやないか……」
「あゝ、あの人か――あれ、奥田といふ人なの?」
 私は岡のアトリヱで出遇つた洋服の紳士に気づいたが、顔は思ひ出せなかつた。
「あの人なら何も僕を訪ねて来たといふわけぢやないんだよ――。あいつは……」
 と私は云つた。その時私は、その男が、とても真面目さうに眼を据ゑて稍ともすれば、芸術家としての立場として僕が云ふならばね――とか、結局僕はサンボリストなんで――などゝそれが酪酊者の耳にも酔を醒すかのやうなキンキンとした奇声で、鼻が、そいだやうに高く眼がぐるりと凹んでゐたことなどを微かに思ひ出した。そして、何とも、やりきれね男だ――と思つた印象に気づいた。
「あいつは。あの、小倉りら子さんの友達なんださうだぜ。」
「なるほど――」
 その時、私は電話に呼ばれた。――名前を訊いて貰はうとす
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