もは気の利いた細君であるのにその表情は何故か飽くまでも頑として、むつと唇のあたりが尖つてゐるのであつた。
その妻の姿では、寧ろ私の方が気嫌を損じてしまつた。
「奥田林四郎は、何うしましたか?」
倉が訊ねた。
「そんな人、知らないね。」
「昨日、あなたを訪ねて東京から来た人さ――作家ださうぢやないか……」
「あゝ、あの人か――あれ、奥田といふ人なの?」
私は岡のアトリヱで出遇つた洋服の紳士に気づいたが、顔は思ひ出せなかつた。
「あの人なら何も僕を訪ねて来たといふわけぢやないんだよ――。あいつは……」
と私は云つた。その時私は、その男が、とても真面目さうに眼を据ゑて稍ともすれば、芸術家としての立場として僕が云ふならばね――とか、結局僕はサンボリストなんで――などゝそれが酪酊者の耳にも酔を醒すかのやうなキンキンとした奇声で、鼻が、そいだやうに高く眼がぐるりと凹んでゐたことなどを微かに思ひ出した。そして、何とも、やりきれね男だ――と思つた印象に気づいた。
「あいつは。あの、小倉りら子さんの友達なんださうだぜ。」
「なるほど――」
その時、私は電話に呼ばれた。――名前を訊いて貰はうとすると、ともかく私に出て欲しいと云ふだけで、何とも云はぬといふのである。
「どなた?」
私は、突つけんどに訊ねた。――倉も嫌ひだが、あの奥田とかといふ奴は一層嫌ひだと思つてゐた。
「あの、あたくしよ……」
私には、直ぐにりら子と解つた。いつもなら私は、斯んな場合には仲々のつむぢ曲りで、そんな思はせ振りに出遇ふと、相手の名前が解つても、わざと素知らぬ風にしてゐるのであつたが、
(尤も、そんな験しは殆ど無かつたが。)
「あゝ、小倉さんですか?」
と爽やかに云つた。
「ほゝ、お解りになつて――お早うございます。」
「……いや、さうですか。」
「ほゝゝゝ、まだ、好くお眼がさめませんの。」
「いゝえ、そんなこともありませんが……」
「妾、今、どこからお電話してゐるかお解りになつて……」
「解りませんな。」
それよりも何うして彼女が、私のところが解つたのか、決して手紙のやりとりをした験しもないのに――などゝ私は思つた。
「あのね……今、お閑?」
「えゝ、まあ……えゝ、閑です。」
この退屈気な、そして、凡そ俗つぽく甘つたる気な相手の態度が、抽象的には私にとつては虫唾を覚える程疳癪にさわる類のものだつたに関はらず――私は、さつぱり厭な気が起らないばかりか、次第に胸がときめいて来た。
「あの、少し散歩なさいませんか?」
「しかし……」
と私は叫んだ。「うちへいらつしやいませんか、道は……と。」
「嬉しい、伺つても関ひませんこと……」
「関はないから……」
庭の方で変な咳払ひが起つたので、そつちを私が見ると、それは倉らしかつたが、驚いたことには、妻が、ぬつと立ちあがつて迂参さうに私の様子を睨めてゐるのであつた。
こいつはしまつたぞ――。
私は、不図――左う気づいたが、それにしても、何故、妻は急にそんな顔つきとなつたのかそして私自身も何故妻のそんな顔つきに胸を冷すのか――私は、寧ろ不思議に思つた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「酒盗人」芝書店
1936(昭和11)年3月18日発行
初出:「文科」春陽堂
1931(昭和6)年10月〜1932(昭和7)年3月
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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