で、私は、誰だつて関ふものか――と思つて跳ね起きた。
「……何ツ云つてやがんだい、べらぼう奴……グググ……」
 突然、そんな音響がしたので、気をつけて見ると、それは眠つてゐる人の寝言であつたから私は、遠慮して部屋を抜け出さうとすると、なほもその人の寝言は意味も解らずに続いてゐるかと思ふと、やがて、それは何とも名状し難い不思議な、強ひて聯想を求めるならば鳥のかけす[#「かけす」に傍点]の鳴声のやうな、苦悶に似た叫びを挙げたりした。
 ――そんな奇声では、夢も醒めたか知ら? と思つて振り返つて見たが、相変らずその人は無何有の奈落で安心してゐる模様であつた。
 ともかく、それは、男も男、たしかめるまでもなく度えらい男の、濁りを湛へたばす[#「ばす」に傍点]であると思ふと――私は何といふこともなしに吻つとして、著たまゝ寝てゐた著物の兵古帯などを締め直してゐると、間断なく鼾声と寝言が入れ交つてゐたが、寝返りを打つ拍子に彼は、家鳴りをたてゝ力一杯側らの壁を蹴つた。
 それでも彼は、未だ夢が醒めないばかりか、頭だけを被著の中にかくして、不図私が見ると鬼のやうに逞しい荒くれた毛脛の二本の脚部をすつかり露出して、加けに、今、壁を蹴つた方の脚は、蹴つたまゝの有様で、壁の中腹にぬくぬくと立てかけて、休んでゐた。――もう一本の脚は(私は斯んなことを記述するのは実に閉口なのであるが、或る必要を覚えるので余儀なく誌すのであるが――。)私の蒲団の裾の方にふん張つて、膝をぎつくりと四角に曲げてゐた。また、一本の腕は、ぬつと頭の上に突き出て、枕をあらぬ方へ突き飛してゐた。
 一体誰だらう、和尚か知ら、R村の加茂村長かしら――左う私が首を傾けたのは、常々和尚は、自ら「雷の如き軒声」と称して、自分のうたゝ寝の態を自慢してゐたし、またR村の加茂と称ふ大酒家の老村長は、自分は、寝言であらゆる秘密を口走る習慣があるので、うつかりしたところには泊れない、君となら――と私を指して、一処に旅行をしても平気であるがといふことを云つてゐたので、私は二人の何れかを聯想したのであつたが、若し私が、単に、その寝姿を眺めて、知人を想ひ浮べるならば万一的が外れた場合に、たとへそれが私の秘かな呟きであつたにしても、私は満腔の恥を強ひられねばならぬであらう――ことほど左様に、その人の寝像たるや世にも猛々しく、あられもない姿であつた。
 更に私は、これこそ、記述を差控へるべきであるのだが(後になつて、この人が奥田林四郎と称ぶ或る男と判明するのだが、やがて私はこの男に惨々に苛められるのであるが、肚の中で癪に障るばかりで何うしても憎い奥田を説伏せしめることが出来ないで、無念の歯噛みをふるはせるといふことになるのであるが、そんな場合に立ち至つてから私は、わずかに奥田のこの[#「この」に傍点]寝姿を廻想して秘かに鬱憤を晴す想ひをするのであるからなのであるが――。)あゝ、やつぱり私は止めて置かう、不しつけであるばかしでなく、そんな描写は自ら卑怯と責められるから……。
 ――私は思はず袂で顔を覆ふと、這々の態で部屋を飛び出した。
 和やかな朝であつた。
 その館は、町端れの、時折り私が執筆の仕事等を携へて滞溜することのある海辺の旅舎だつた。
 それは左うと――俺は自分の仕事をしなければならないのだ、うか/\と、もう幾月も遊んでしまつたことだ、今日はモデルが終つたら直ぐに帰つて来る、晩飯を待つてゐてお呉れ――と、はつきりと前の日に妻に云ひ残して出かけたまゝ、知らせもせずに他所に泊つてしまつたと思ふと私は、まつたくそんなことは珍らしいので、弱い心地になつて道を砂浜伝ひに急いだ。

     五

 私は裏の門から駆けこんで、直ぐに自分の部屋へ逃れて、もう一度寝直さうとする。
「やあ、お早よう!」
 と、泉水の傍らで、私の妻と茶卓子を囲んでゐた倉が、変なわらひを浮べて厭に愛想よく呼びかけた。
 一体私は、事もなくにや/\とわらふ人は苦手であつたが、倉の、にやりわらひは就中毛嫌ひを覚えるのであつた。
「夜をこめてのモデル働きぢや、仕事は一時にはかどつたことでせう?」
「徹夜でモデルになることなんてあるものか――酔つ払つてしまつたんだよ。」
「ほゝう!」
 倉は、皮肉気に驚いて、
「そいつは、また滅法な元気ですね。」
 などと、にやり/\としてゐるのだ。
「君は、居なかつたのか、昨夜は?」
「冗談でせう――拙者は、昨夜から引きつゞいてこの家の客だつたさ。大次郎も共々――奴は未だぐつすりだ。」
 ぐつすりだ! といふ言葉を聞くと、私はさつきの光景を思ひ出して、総身に鳥肌を覚えた。
 妻は、決して私の方を見向くことなしに編物をつゞけてゐた。――他所から泊りがけで帰つて来るやうな場合には、寧ろ晴々しく迎へるといふ風な、いつ
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