、此度はその声が、決してそんな風には私には響かなかつた。
「……あのね、あの、あたくし、斯んなことを直接に申すのは恥しいんですけれど……」
 と、つゞけて婦人は真赤な唇を手の甲でおさへながら、視線は決して私から離すことなく円らにうつとりとさせたまゝ「もう何年も何年も前から、あなたの作品のとても熱心な愛読者なんですのよ。」
 と、いともふくよかに呟いた。
「はあ、さうですか……」
 私は、落つき払つたつもりで答へたが、にはかに胸が激しい鼓動を打ちはじめた。
「やい、この低脳の風来坊! 手前えは、ぬすつとだぞ。歩いて来た時のボロツ着物を着て出て行きあがれ。」
 鶴井の声は益々高まつた。そんなことには私達は、至極慣れてゐたから誰も驚く者とてもなかつたが、罵り合ひは次第に激しくなつて、あたりを圧した。
「何とでも云やあがれ。――うぬ[#「うぬ」に傍点]が、お春に書いた手紙は皆な俺は読んで知つてゐるんだぞ。……ふつふつふ――だ。大した名文だよ。」
 倉閑吉は、くるりと鶴井に背を向けて皮肉気な嗤ひを浮べてゐた。すると鶴井は、突然、髪の毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つて
「あゝツ、口惜しいツ!」
 と叫んで、ワツと泣き伏した。そして、「倉の奴は、自分が、文字といふものが何一つ書けないことを飽くまでも秘密にして、俺が書いた手紙を、そつと手写して、事もあらうにそれをそのまゝ、お春に渡して、加之に俺のことを、さん/″\にこき降した。」
 と身を震はせて泣きながら、鶴井は誰にともなく大喚きに訴へた。鶴井は、もう、たしか四十歳であつたか? と思ふ。
「鶴井――」
 と和尚が呼んだ。――「その手紙は倉に頼まれて俺が写してやつたんだよ。いきさつを詳しく聞きたかつたら、はちす[#「はちす」に傍点]のトンネルを俺の背丈けに明けたならばね……」
 こつちでは、私の作品の「愛読者」が、
「あの、妹さんでいらつしやるんですか?」
 と私の妻に訊ねてゐた。妻が、それに答へそびれて、どぎまぎとしてゐる様子だつたから私は代つて、云はうとした時、不図食膳の蔭にある私の手を、徐ろに力を加へながら握る者があつた。
 妻かしら? と私は思つたので、見ると、妻は和尚を隔てた隣りで、熱さうに両掌で頬をおさへてゐた。
 私は、ドキツとして慌てゝ手を引かうとすると、力一杯手首をつかまれてしまつてゐた。――
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