足を洗つて炉端を囲んだ。そして私は、老婆に向つて、自分達は、野に寝、山に寝――しながら、この山を超えて、甲州路へ出ようとしてゐるんだ! などと云ふと、老婆をはじめ、家族の者達は、即座に手を振つて、それは無謀だ、ヤグラ岳には今でも狼が出るよ、道らしい道もない、甲州路へ出るには此方の明神ヶ岳を超えて三島へ降り御殿場から富士の裾野を廻つて大月駅を目指さなければならぬだらう――と説明した。
「狼位ゐ出たつて、こいつがあれば大丈夫だよ。面白いや!」
「だけど狼は、喰へねえだらうな。」
「それこそ、まづいにきまつてゐる。」
 皆は口々に斯んなことを云つたが、内心ではこの儘、R村に当分滞在すべき安心を覚えてゐたのである。
 老婆は嫁を相手に餠つきをはじめた。
 その晩私は、老婆の言葉に依つて、私の所有に関はる少しばかりの田畑がR村に在ることを遇然に知らされた。そして一行の者は、その田畑をたがやすことに依つて、糧食が得らるゝであらう――といふことを知り、安堵の胸を秘かに撫で降した。
 翌日から私達は、市場通ひの馬車を駆つたり、水車小屋で米袋を担いだり、田の草をとつたりする労働にたづさはりはじめて、健やかだつたが、あの時若し老婆に出遇はなかつたならば? といふことは誰も口にしなかつた。娘はドリアンに乗つて一先づ帰つたが、時々町の便りを携へて私達を訪れてゐる。
 私達は辛うじて生活の安定を得た。
 私は、此処で、「ガリバー旅行記」「ラマンチアのドンキホーテ」「ピルグリムス・プログレツス」等の遍歴物語を読み、そして私にとつて、久しい懸案であつたところの「山彦の街」と題する至極浪漫的な創作の稿を起した。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第六巻七号」宝文館
   1930(昭和5)年7月1日発行
初出:「若草 第六巻七号」宝文館
   1930(昭和5)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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