きなり柱のてつぺんへ飛びついた。……しつかりと、出来るだけ体を小さくして、しがみついた。そして眼を瞑つて、左手で軽く鼻をつまんで、
「ミーン、ミーン、ミーン。」と高らかに鳴いた。「ミーン、ミンミン、ミーン。」
一寸静まつた大広間中に、ミンミン蝉の鳴き音が、夏の真昼の静けさを思はせて、麗朗とこだま[#「こだま」に傍点]した。
だが次の瞬間、大広間は嘲笑と罵りに満ち溢れた。「馬鹿にしてゐやアがらア。」「彼奴は始めツから浮かぬ顔をしてゐた、折角の会にケチを附けようと思つてゐるんだ。」「彼奴はさつきから吾々の座興を眺めてにや/\してゐたが、さては馬鹿にしてゐたに違ひない。」「失敬な奴だ、ワセダの芋書生ツ。」「何てイケ好かない真似をする人でせう。」「引ずり降して畳んぢめ!」
木枝の影に蝉が一匹止つてゐる。夏を惜んで切りに鳴き続けた――悪気なんて毛頭あつた筈はない、滝野はたゞさういふ閑寂な風景を描出したつもりなのだ。懸命になつて一幅の水彩画を描き、点景として蝉を添へたのだ。
だが彼は、もう少しの間見物人が静かだつたら――そこに悪童が現れて、袋竿で憐れな蝉を捕獲しようと忍び寄る風情を、鳴き続けてゐる蝉の細い思ひ入れで現し、悪童の接近を意識した蝉は、未だ/\大丈夫だといふ風に歌ひながら静かに梢を回り、いよ/\袋が近付いた瞬間に、(どつこい、さうはゆかない、あばよ。)とばかりに、尿を放つて空中に舞ひ上る――ところでこの演技を終らす考へだつたが、――そんなことをしないで好かつたと思つて秘かに胸を撫で降した。
周子は、一日も早く郊外に家を探さなければならないと思つた。郊外に家を定めたら、夫は夫、自分は自分で、常々憧れてゐる文化的生活を営まうなどゝ思つた。
「二階があなたの部屋で、階下《した》が完全に私の部屋ですよ。私が何んな風に飾らうと口を出さないで下さい、あなたの迷惑にさへならなければいゝでせう。」
「それも好いだらう。」
滝野は、二日酔の重い頭で物憂気に答へた。夕陽が部屋の真中まで射し込んでゐた。滝野は上向けに寝転んで天井を眺め、細君は伏向いて編物をしてゐた。
「郊外の家でなら少しは、遅くまでお酒を飲んでも関ひませんわ。」
「お酒はもう止さうかと思つてゐるんだ。」
細君は嬉し気に、だが眼を丸くして、
「そして、どうするの?」と訊ねた。
「ラツパを始めようかと思つてゐる。」
「あなたは中学の時分ラツパ卒だつたのね、ラツパを持つて写した写真がありましたね。だけどまさかあの[#「あの」に傍点]ラツパぢやないんでせうね。ホツホツホ……」
「うむ。――コルネツトとかホーンとか云ふ楽隊用の奴さ。あれだつて唱歌ならすぐにでも出来るんだ。」
「そんなら好いでせうが、私はまた兵隊のラツパかと思つて驚いたわ、いくら郊外だつてあれ[#「あれ」に傍点]を吹かれちやア!」
「僕は寧ろあれ[#「あれ」に傍点]を吹いて見たいんだ、あれならほんとに得意なんだ。」さう云つて滝野は一寸無気になつて思はず胸を拡げた。「お前にも一辺俺の得意の業を見せてやり度い。」
「お止めなさいよ、馬鹿/\しい。」
「皇族のお出でになる時、君が代を吹奏するのは俺一人だつた。校長が俺に雑記帳の褒美を呉れた。他人《ひと》から賞められた上賞品を貰つたといふ事は、あれ以外には無いことだ。――俺は体操の教師とは最も仲が悪かつた、普段体操の場合|丈《セイ》の順は一番のビリだつた、処が晴れの日には俺は先頭に立つて威風堂々とラツパを吹いた、ラツパ卒は皆な大きな奴ばかしで俺が入ると具合が悪かつたが、ラツパの音は俺のが一番素晴しかつた、何とかして俺を除外したがつてゐた体操教師も、あれには敵はなかつた、運動会の分列式の時には校旗と並んで俺一人がラツパを吹いた、見物の女学生などは感嘆の声を挙げた。」滝野は変に調子づいてペラペラと喋舌つた。(発火演習の帰り路などには、軍隊はへと/\に疲れて軍歌を歌ふ気力もなかつた。村の家々の窓からは灯火が洩れてゐた。「滝野ひとつ頼むよ」と誰かが云ふと「よしツ。」と自分は先頭に進み出た。そして小脇のラツパを取り上げるや余韻条々たる進軍曲を吹奏した。全軍の歩調は忽ち愉快に整つて、勇しい靴の音が夕暮の森に響き渡つた。駈歩になつても、俺は調子違へずに吹けたものだ。)
十二三年も前のことだ。(五年生の時そんなものを軽蔑して、棄てゝ以来随分永い月日が経つが、今でも出来るかしら?)彼は、そんな思ひに耽つてゐた。
「たしか田舎の家に、つい此間まであつた筈だが……焼けてしまつたかしら?」
「ホーンといふのは何んな形なの?」
「煩いよ――。俺は今そんなものゝことを考へてゐるんぢやない。」
「兵隊のラツパなんてどうでも好いわよ。――しつかりしなさいよツ――」
滝野は、周子の声など聞えぬ風でそつと口のうちで呟いた。「だが困つたことには、あのラツパでは音の調程が出来ないことだ、思ひツきり強く吹かなければ鳴らないんだからなア、練習であらうと正式であらうと、ソツ[#「ソツ」に傍点]と吹くといふ芸当が出来ないんでね。」
「何云つてんのよ、馬鹿ね。それより早く郊外に越しませうよ。花なんて作るのも好いぢやないの。」
「郊外もへつたくれもあるものか、ラツパを吹いて悪ければ田舎へ帰らう。」
「チエツ! 田舎だつて……」
「小田原以上の田舎へ引ツ込まう、何をしたつて文句の出ない処へ行きたい、そして……」
「また始まつた、ふざけるのも好い加減にして下さいよ、ホツホツホ。」
周子は、笑ひ棄てゝ夕食の支度の為に立ち上つた。滝野は、晴れた静かな田舎の風景を想ひ、沁々と力を込めて、専念にあの[#「あの」に傍点]ラツパを吹くことを夢見て、近頃いつにも覚えのない爽々しい恍惚に浸つた。
「お酒はどうするの?」
「勿論だよ。煩いなツ。」彼は迷惑さうに顔を顰めて呟くと、再び凝つと六ヶ敷気に天井を視詰めて動かなかつた。
翌朝から、周子は毎朝三歳の子供の手を引いて、郊外へ家探しに出かけることを日課とし始めた。
[#地から1字上げ](十三年九月)
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第四十一巻第五号」新潮社
1924(大正13)年11月1日発行
初出:「新潮 第四十一巻第五号」新潮社
1924(大正13)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
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