、拒絶されたので、はたと行き詰つた。
「それぢや俺は、一体何をやつたらいゝんだ。」
彼は、口を突らせて不平さうに呟いた。
「知りませんよツ! あゝ、眠い/\。」
「歌はあれより他に知らないんだ。踊りもそれより他に知らないんだ。それがみつともないとされては、一体俺は如何すればいゝんだ。」
「煩い/\、酔つぱらひ。だから立派なことをお習ひなさい。」
「折角この俺が、面白い歌をうたひ、愉快な踊りに耽らうとするのを、碌でもない批評をして、恍惚の夢を醒さうとするのか?」
「止して下さいよ――声が高い!」
「喋舌ることにまで干渉するのか! 牢獄に投ぜられたよりも酷い束縛だツ。叱ツ!(ふざけちやアゐねエんだぞ。)野生の小鳥を生捕りにして籠に飼ふ人々が、何時鳥の嘴を針で縫つたか? 貴様は、蜜に酔ふて花に戯れてゐる蝶々を、毒壺の中へ投げ込む昆虫採集者の助手に相違ないぞ!」
「いゝ加減におふざけなさいツ。」周子は拳を震はせて叫んだ。「文句があるんなら昼間にして下さい、夜中に芝居の真似なんてされて堪るものですか、夜中なんですよ、お隣りに聞えると云つたら! お隣りに――。あゝツあツ!」(チエツ、小鳥が聞いてあきれる! 蝶々もないもんだ。椋鳥か蟷螂《カマキリ》だらう。)
「聞えれば結構だ、どつちが悪魔であるか傍聴者諸君に訊いて貰はう。」
周子は堪え兼ねて、矢庭に夫に飛び付くと、そのしまりのない口の傍《はた》を、思ひきり強く抓りあげた。すると滝野は、芝居がゝつた音声を一段と高く仰山に絞りあげて、
「キヤツ! あゝ痛い/\、救けて呉れ。」などゝ近隣に聞えよがしに叫んだ。
「あゝ、焦れツたい/\/\。」
周子は、われとわが髪の毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ツて、畳の上に打ち伏した。
滝野は、周子の姿を白々しく見降して、意地の悪い微笑を浮べた。そして彼は、食卓の上の徳利を取りあげて、勢ひよくいきなりラツパ飲みにした。
「げツぷ……うむ、斯う馬鹿にされて黙つて引つ込むわけには行かない、歌も許されず、踊りもいけないとなれば、吾輩だつて生きてゐる以上は、生きてゐるといふ何らかの証拠を見せなければ、承知が出来ない、……何を演らうか、何を喋舌らうか、どうすればいゝんだらう。」
彼はそんなことを云ひながら暫らく凝ツと考へた後に、仰山に膝を叩いて、
「よしツ!」と叫んだ。――「と云つても、どうも弱つたなア……斯う行き詰つては仕方がないなア……よしツ、兵式体操でもやつて見よう。」
さう云つて彼は、直立不動の姿勢を執つた――この上、そんな馬鹿なことを演られては堪らないと気づいた周子は、勇気をふるつて再び夫に飛びついた。そして、五体に満身の力を込めて、やつとのことで彼を寝床の上にねぢ倒し、頭の上から被着《かひまき》をかぶせて、しつかりと圧へつけて離さなかつた。そして口のあたりを、拳固をかためて塞いだ。その下で滝野は、あらん限りのしやがれ声を振りしぼつて、
「前へ――進めツ!」とか
「回れ右、前へ、おいツ。」とかなどと、勇敢な号令をかけてゐた。だが、好いあんばいに――と周子が思つたことには、それらの懸声は、ハンケチをつめ込んで吹き鳴してゐるラツパの音のやうに、重苦しく微かにかすれて、四隣に響きわたることはなかつた。
翌朝早く、西隣りの洋館に住んでゐる温厚な文学士が、滝野の朝寝坊の戸を叩いた。文学士は、近隣の迷惑を代表して、抗議と親切な注意とをもたらせたのである。
滝野は、何の返す言葉もあらう筈はなく、たゞぺこぺこと安ツぽく頭をさげてゐたばかりだつた。
その日から彼は、苦い顔をして机の前に坐り始めた。
周子は、その夫の姿を眺めると、わけもなく可笑しさが込みあげた。
(黙つて飯を食ふと、直ぐに彼の人は机の前に坐つて、物々しい顔つきをして煙草ばかり喫してゐる、此方だつて口なんて利き度くもない、清々と好い、だが一体あゝして何を考へてゐるんだらう、――若しかするともう月末も近いことだし、多分、今度は何と嘘をついて国許から金を取り寄せようか? そんなことをでも思つてゐるんだらう、だけど母親などにあんな大きな法螺を吹いて、東京へ出て来たのも好いが、一体どんな了見を持つてゐるんだらう、そんなことでも一寸でも聞かうものなら、自分が馬鹿で寂しいもので、大変口惜しがつて、物を壊したりするんだから、聞いて見るわけにもいかない……あゝ、飛んでもない奴と結婚したことだ。)
田舎にゐるうちは、部屋が別々だつたので夫が稀に書斎に引き籠ることが続いても、何をしてゐるか周子には解らなかつたが、此処に借りた部屋は六畳二間が続いて二つあるだけで、書斎と居間の区別もあつたものではなく、夫のそんな発作に出会ふと、凡ての動作が彼女に観察出来るのだつた。気の毒な程だつた。
滝野は、窓の下に小さな机を向けて、室内の凡てを背にして、端座し続けてゐた。次の間で周子は、子供を相手に編物をしながら、時々夫の後ろ姿を眺めた。
「この唐紙を閉めるんだ。」
滝野はさう云つて閉めにかゝつたが、具合が悪くてうまく閉《しま》らなかつた。彼は、性急に舌を鳴して、断念してまた元の座に返つて煙草を喫してゐた。――そして、彼は時々口のうちで極く低く何やらぶつ/\と呟いだり、大業に胸を引いて、稍暫く首を傾けてゐたり、チヨツと舌を打つたり、さうかと思ふと、薄気味悪いことには、にや/\と声のない笑ひを浮べたり、ウン[#「ウン」に傍点]といふやうに拳を固めたり、悲し気な溜息を吐いたり、ポンポンと頭を叩いたり、唇を卑し気に歪めたり……そして、ふつと周子の存在に気付くと、忽ち気を取り直して、鹿爪らしく坐り直したりしてゐた。――その晩は、徹夜をしたらしかつた。朝になつて、周子が見ると、彼は、胡坐の儘後ろに反つて、死んだやうに眠つてゐた。
机の上に原稿用紙が拡げられて、その何枚かが滝野のイヂケた文字で埋つてゐた。
周子は、悪い気がしたが、好い加減なところをそつと覗いて見た。――こんなことが書いてあつた。
「……さうは思つても、たゞさう[#「さう」に傍点]思つたゞけのことで、純吉の胸はマツチをすつた程にも動かなかつた。彼は、鈍い夢を振り棄てるやうに首を振つて、相手の顔などは見ずに、漫然たる笑ひを浮べながら、
「これが羞かみでゞもあるんなら、君の悪戯も効を奏したわけになるんだが、(どつこい、さうはいかないよ。)――非常に図々しいんだよ、この俺は、この俺は。」と云つた。つまらないことばかりに興味を持ちたがる川瀬へ、これで純吉は一矢報いたつもりだつた。
「そりやア文学青年なんていふ代物は、十中の八九までそんなものさ、フツフツフ……あゝカビ臭い、カビ臭い。」
川瀬は、さう云ひながら仰山に顔を顰めて鼻をつまむ真似をした。
「小説が書けないで閉口することを小説にした小説が往々あるが、その種の小説程馬鹿/\しい物が、またとあるだらうか!」
純吉は、さつき云はうとしたところに漸く話を戻して、いかにも立派な意見でも吐いたかのやうに重々しく呟いた。
「俺はそんな小説は、てんで読んだこともないから知らないがね。」と川瀬は、空々しく煙草を喫しながら、
「つまらなければ読みさへしなければ好いぢやないか、つまらないとか何とか云つては、異様な憤慨を洩らすのが、これまた文学青年の……」
「君は一口毎に文学青年、文学青年と云つては、その言葉の中に怪し気な軽蔑の意を含ませるのが好きだが、さういふ都会人はたしかに今でもゐるんだね。その上僕は、君のその笑ひが気に喰はない、何がそんなに可笑しいんだ、可笑しいことなんてそんなにある筈はない、失敬な!」と純吉は答へた。
「アツハツハ……そいつア参つたね。」
川瀬はさう云つて笑つたが、別段参つた様子もなく、アツハツハと笑つて、後ろにそつて、折目の正しい白いズボンの片方の脚でポンと空を蹴つた。
「馬鹿だな、参るも何もありアしないぢやないか、さう浮々と参つたり参らせられたりして堪るものか。」と純吉は云つて、自分に自分が擽られた気がして思はず退儀な苦笑を洩した。」
それだけ周子は読んで、退屈になつて止めようかと思つたが、傍で何も知らずに口を空けて眠つてゐる滝野の姿を見ると、いわれのない反感を覚えて、二三枚飛ばして読む気になつた。
「――「ところがね、川瀬!」と純吉は一つ大袈裟な息をいれて「僕の云ふことを一寸真面目になつて聞いて呉れ。」と云つた。
「相変らず拙い芝居をやりたがりやアがる。」
「僕がね、僕がね……」純吉は、上ツ調子ではあるが、重苦しく妙に吃つて「その僕がね、実は、もう一ト月も前から書きかけて、そして行き悩んでゐる小説といふのが――だ。つまり、その、例の、小説に書くことがなくて閉口してゐることを取材にした小説なんだ。……斯んなことは毛頭云ひたくない、君がさつきからあまり親切ごかしに責めたてるので、恥を忘れて口外するんだ。」
純吉の様子は案外芝居でもないらしく、そつと面を反らせてゐた。さうなると相手の心を静かに汲み取り、そして自分も薄ら甘い何かに咽び入る性質の川瀬は、横を向いて困つた笑ひを浮べた。
「親父のことで、感傷的になることは仕方がないが、その感傷に浸つて、強く回想して、更に書くことも薬だと思ふ。」父を喪つて以来稍ともすれば子供ツぽい感情の脆さを現したがる純吉に、川瀬はさうとでも云ふより他はなかつた。
「いつか僕は、君に、もうあれはお終ひだ、とはつきり云つた。(不孝の子)を書いた時には、全くさういふつもりだつた。既に世になき者の幻を追ふたりすることは、此頃の僕の評価にてらすと避けなければならないのだ。」
「さういふ評価でもつくらずには居られないだらう。」
「そんな同情をされても困るが――」
「好い加減にしろ、愚痴は止して貰はう。」
「親父のことはもうお終ひだと云ひ、そしてそんな評価とかなどを拵へたりしながら――彼奴[#「彼奴」に傍点]は何といふ虫の好い小僧だらう。」純吉はそんなに呟いで、変に無気になつて苦い唾を吐いた。「彼奴[#「彼奴」に傍点]といふのはこの俺のことだ。それにも関はらず、いけ図々しい甘ツたるさを振りまいて、彼奴はまた親父のことを書きやアがつた、つい此間! 然も長たらしく! 恥知らず奴! 文学とは何だ、小説もないもんだ。自分で自分のことを(不孝な子)が聞いてあきれる――三千尺の地下に静かに眠つてゐる父へ、またしても呪はれたる愚かな双手を差し延べるとは何事だ。」さう思つて胸を掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]る思ひにされた時、ふつと彼は、
(それにしても、あの騒々しい親父が、斯うも急にぴつたりと鳴りを静めたかと思ふと、何といふアツケないことだらう、恰で花火のやうぢやないか。)そんなキヨトンとした心が白く浮んで、危ふく失笑するところだつた。
「おい/\。」と川瀬が彼の肩を叩いた。「小説が書けないで困ることを取材にして書きかけた小説ツて、どんなことなんだ、悄気たりしないで書き続けたらいゝぢやないか?」
おや/\、俺は今川瀬と、何の話をしてゐたのだつたかな――純吉は、夢から醒めた気がした。(あゝ、さうだつた、俺はさつき好い加減な出たら目を川瀬に話してゐたんだ。)
「うむ、書き続ける気だ。」純吉は、意味あり気にうなつた。
実際彼が、さつき川瀬に、小説が書けないで困つたことを材料にした小説を、もう一ト月も前から書きかけてゐるなどゝ云つたのは、嘘だつた。それは悉く彼の、虚飾なのだつた。そんなことでも云へば、自分が以何にも思慮深く、そして執筆に相当の苦心をする如く思はれるだらう、そしたらいくらか重々しく見られるだらう――それ程低い程度の純吉だつた。だから彼は、友達から、
「君は、書くことが速いか? 遅いか?」などゝ訊ねられると、
「斯う遅筆ぢや困つたものだ。」と答へるのが常だつた。彼は、四五日前父に関する思ひ出を脱稿してゐた。想像力の鈍い彼には、それを書いたら、すつかり頭がから[#「から」に傍点]で、更に小説などゝは思ひも及ばなかつた。
「これから僕は如何《どう》したら
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング