私が与へたる男子一と度郷関を出づ云々の古語を此上にも体得せられ度候。一朝秘書官に擬せられたとは云へ驕る者久しからず矣の喩えを忘るゝこと勿れ持して放つべからず 今や父上の亡きと云へども帰らざることなれば此の秋《とき》こそ御身も剣を与へられたる心となりて立ちて行かれたし
 さて秘書官とも相成れば交際場裡に立つ日も多からむと存ぜられ候故伝来の紋服袴一着夏期用取りそろへこの便と共に御送り申し候 罹災の折頭初に持ち出せしものなれば破損も致し居り候ものゝ公席に出づる場合は必ず着用せられ度候、流行云々などゝいふ従来の御身の悪癖は此の際一掃せられたく、伝来の紋服を用ひて心のいましめとなし、万々酒席等に於て失策のなき様祈り居り候 尚夏期用の外出者のなきことを思ひ出し候故公式以外の訪問用としての衣服羽織袴等一組新調の物同封いたし置き候……」
 夕方六時から日本橋の何とかと称ふ、滝野などの未だ行つたことのない大きな料理屋で同級会が開かれる筈だつた。その日は珍らしく彼は朝から起き出でゝ、そわ/\と落ちつかなかつた。
 初めて、新調の羽織、袴を着て出かけることが滝野を可成り嬉しがらせた。さすがに紋服を着用して出
前へ 次へ
全36ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング