いゝだらう、この小さな体を持てあました。君は多芸だから羨ましい。」純吉は、沁々と云つた。
「テニスでもやれよ。」
「嫌ひなんだ。」
「そのうちまた何か始まるだらう。」
「始まるかしら? 然し何か生活に色彩か変化を欲しいことだ、どんな些細なことでもいゝから――」
「君は小説の方程式を知らないから――」
「小説も何もないんだ。」
「それが好くないんだよ、その癖が。――だから斯んな場合に沁々と勉強し給へよ、方程式を呑み込んでしまへば、二つや三つ小説を書いたからツて、ビク[#「ビク」に傍点]ともしなくなれるよ……解る?」
「解るやうにも思へるし……」純吉は、滅入りさうな声で「本を読むことすら斯う嫌ひでは救はれぬことだ。」などゝ云つた。「斯んなことばかり云ふのは笑はるべきで、寧ろ重々卑しいが、俺の心には大きな風穴があいてしまつた。トンネルのやうにガラン洞で、落寞としてゐる、いやこれは生れつきだ、此奴親父をきつかけにして、いろんな風に媚びたり甘えたりしてゐるに違ひない。」……」
 斯んなに読んでも、未だ滝野は身動ぎもせずに眠つてゐるが、周子は酷い退屈を覚え、この先読み続けるのは、頼まれても厭な気がした。――あんなに業々しい態度で、夜となく昼となく机の前を離れずに考へ、そして書いたことが、斯んな馬鹿/\しい愚痴だつたか、と思ふと軽蔑の念はおろか、彼女は肚もたゝなかつた。
 その晩も、また滝野は机の前で徹夜した。何とか遠廻しにからかつてやりたい気もしたが、酒を飲んで騒がれるよりは増しだつたから、周子はそつと何も知らぬ振りをしてゐた。
 翌朝彼女が起きて見ると、滝野は机に突ツ伏して鼾をかいて眠つてゐた。――その周囲には、滅茶苦茶に引き裂かれた原稿紙の破片が無数に散乱してゐた。
 滝野は、三時頃まで眠つて、起ると、酒を出せと命じた――。辛うじて一本の酒を飲み終る頃には、彼はもう真ツ赤になつて、大して饒舌にもならず、その儘寝床にもぐつて翌朝までこんこんと眠つた。

 滅多に手紙などの来ることのない滝野のところへ、或る朝一通の往復はがきが配達された。――××中学卒業生のうち、東京在住の者だけの同級会の案内状だつた。滝野は、返信の「出席」「欠席」といふところを、「出席」に八重丸を付け「欠席」に棒を引いて、折返し差出した。滝野は来年三十歳だが、つい此間まで両親の許に碌々として生きて来た為か、そんな用もなくて夏羽織とか夏袴とかを着用した経験がなかつた。前の年の夏などは郷里が海辺だつたので、堅い麦藁帽子を一度も冠らずに済んだ位ゐだつた、経木の帽子より他に用がなかつた。
 この夏から彼は、東京に住むことになつた、母には新聞社へ務め、傍ら文学の研究に没頭してゐると称してあつた。
 二ヶ月程前、或る文学雑誌のゴシツプ欄に「文壇内閣見立」といふ戯文が出たことがあつた。現代文壇の著名な文学者を夫々の大臣に見立てたものであつた。そして各々の大臣の秘書役として、大臣文学者の門を叩いてゐる文学青年のうちで最も意久地のなさゝうな一人を夫々一名宛挙げて、秘書役になぞらへて痛棒を喰はせた皮肉な見立なのであつた。滝野清一は、逓信大臣北上川栄二の秘書役に抜擢されてゐた。
 その雑誌が出てから間もなく、滝野は母親から貰つた長い手紙の文中に次のやうな一節を発見した。
「……昨日偶々石川老が持参いたせし××雑誌を閲読いたしたる処、文壇内閣欄に於て計らずも御身の名前を発見し、母なるものは弱き哉思はず嬉し涙に咽び入り候 去月御身出京の節御身が私に云ひ残せし言葉は此の度こそは初めて詐りでなかりしこと相解り候 その節私が与へたる男子一と度郷関を出づ云々の古語を此上にも体得せられ度候。一朝秘書官に擬せられたとは云へ驕る者久しからず矣の喩えを忘るゝこと勿れ持して放つべからず 今や父上の亡きと云へども帰らざることなれば此の秋《とき》こそ御身も剣を与へられたる心となりて立ちて行かれたし
 さて秘書官とも相成れば交際場裡に立つ日も多からむと存ぜられ候故伝来の紋服袴一着夏期用取りそろへこの便と共に御送り申し候 罹災の折頭初に持ち出せしものなれば破損も致し居り候ものゝ公席に出づる場合は必ず着用せられ度候、流行云々などゝいふ従来の御身の悪癖は此の際一掃せられたく、伝来の紋服を用ひて心のいましめとなし、万々酒席等に於て失策のなき様祈り居り候 尚夏期用の外出者のなきことを思ひ出し候故公式以外の訪問用としての衣服羽織袴等一組新調の物同封いたし置き候……」
 夕方六時から日本橋の何とかと称ふ、滝野などの未だ行つたことのない大きな料理屋で同級会が開かれる筈だつた。その日は珍らしく彼は朝から起き出でゝ、そわ/\と落ちつかなかつた。
 初めて、新調の羽織、袴を着て出かけることが滝野を可成り嬉しがらせた。さすがに紋服を着用して出
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