ても、どうも弱つたなア……斯う行き詰つては仕方がないなア……よしツ、兵式体操でもやつて見よう。」
さう云つて彼は、直立不動の姿勢を執つた――この上、そんな馬鹿なことを演られては堪らないと気づいた周子は、勇気をふるつて再び夫に飛びついた。そして、五体に満身の力を込めて、やつとのことで彼を寝床の上にねぢ倒し、頭の上から被着《かひまき》をかぶせて、しつかりと圧へつけて離さなかつた。そして口のあたりを、拳固をかためて塞いだ。その下で滝野は、あらん限りのしやがれ声を振りしぼつて、
「前へ――進めツ!」とか
「回れ右、前へ、おいツ。」とかなどと、勇敢な号令をかけてゐた。だが、好いあんばいに――と周子が思つたことには、それらの懸声は、ハンケチをつめ込んで吹き鳴してゐるラツパの音のやうに、重苦しく微かにかすれて、四隣に響きわたることはなかつた。
翌朝早く、西隣りの洋館に住んでゐる温厚な文学士が、滝野の朝寝坊の戸を叩いた。文学士は、近隣の迷惑を代表して、抗議と親切な注意とをもたらせたのである。
滝野は、何の返す言葉もあらう筈はなく、たゞぺこぺこと安ツぽく頭をさげてゐたばかりだつた。
その日から彼は、苦い顔をして机の前に坐り始めた。
周子は、その夫の姿を眺めると、わけもなく可笑しさが込みあげた。
(黙つて飯を食ふと、直ぐに彼の人は机の前に坐つて、物々しい顔つきをして煙草ばかり喫してゐる、此方だつて口なんて利き度くもない、清々と好い、だが一体あゝして何を考へてゐるんだらう、――若しかするともう月末も近いことだし、多分、今度は何と嘘をついて国許から金を取り寄せようか? そんなことをでも思つてゐるんだらう、だけど母親などにあんな大きな法螺を吹いて、東京へ出て来たのも好いが、一体どんな了見を持つてゐるんだらう、そんなことでも一寸でも聞かうものなら、自分が馬鹿で寂しいもので、大変口惜しがつて、物を壊したりするんだから、聞いて見るわけにもいかない……あゝ、飛んでもない奴と結婚したことだ。)
田舎にゐるうちは、部屋が別々だつたので夫が稀に書斎に引き籠ることが続いても、何をしてゐるか周子には解らなかつたが、此処に借りた部屋は六畳二間が続いて二つあるだけで、書斎と居間の区別もあつたものではなく、夫のそんな発作に出会ふと、凡ての動作が彼女に観察出来るのだつた。気の毒な程だつた。
滝野は、窓の下に小さな机を向けて、室内の凡てを背にして、端座し続けてゐた。次の間で周子は、子供を相手に編物をしながら、時々夫の後ろ姿を眺めた。
「この唐紙を閉めるんだ。」
滝野はさう云つて閉めにかゝつたが、具合が悪くてうまく閉《しま》らなかつた。彼は、性急に舌を鳴して、断念してまた元の座に返つて煙草を喫してゐた。――そして、彼は時々口のうちで極く低く何やらぶつ/\と呟いだり、大業に胸を引いて、稍暫く首を傾けてゐたり、チヨツと舌を打つたり、さうかと思ふと、薄気味悪いことには、にや/\と声のない笑ひを浮べたり、ウン[#「ウン」に傍点]といふやうに拳を固めたり、悲し気な溜息を吐いたり、ポンポンと頭を叩いたり、唇を卑し気に歪めたり……そして、ふつと周子の存在に気付くと、忽ち気を取り直して、鹿爪らしく坐り直したりしてゐた。――その晩は、徹夜をしたらしかつた。朝になつて、周子が見ると、彼は、胡坐の儘後ろに反つて、死んだやうに眠つてゐた。
机の上に原稿用紙が拡げられて、その何枚かが滝野のイヂケた文字で埋つてゐた。
周子は、悪い気がしたが、好い加減なところをそつと覗いて見た。――こんなことが書いてあつた。
「……さうは思つても、たゞさう[#「さう」に傍点]思つたゞけのことで、純吉の胸はマツチをすつた程にも動かなかつた。彼は、鈍い夢を振り棄てるやうに首を振つて、相手の顔などは見ずに、漫然たる笑ひを浮べながら、
「これが羞かみでゞもあるんなら、君の悪戯も効を奏したわけになるんだが、(どつこい、さうはいかないよ。)――非常に図々しいんだよ、この俺は、この俺は。」と云つた。つまらないことばかりに興味を持ちたがる川瀬へ、これで純吉は一矢報いたつもりだつた。
「そりやア文学青年なんていふ代物は、十中の八九までそんなものさ、フツフツフ……あゝカビ臭い、カビ臭い。」
川瀬は、さう云ひながら仰山に顔を顰めて鼻をつまむ真似をした。
「小説が書けないで閉口することを小説にした小説が往々あるが、その種の小説程馬鹿/\しい物が、またとあるだらうか!」
純吉は、さつき云はうとしたところに漸く話を戻して、いかにも立派な意見でも吐いたかのやうに重々しく呟いた。
「俺はそんな小説は、てんで読んだこともないから知らないがね。」と川瀬は、空々しく煙草を喫しながら、
「つまらなければ読みさへしなければ好いぢやないか、つま
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