う、心が発展しないのは明らかなことで、小説など書ける筈がない、それが証拠には彼の生活の何《ど》の一端を捕へても、それには五分の光りも見出せない、叙情味もない、思索もないと云ふて深刻な憂鬱もなければ、倦怠《アンニユイ》の人生も覗かれない……意久地なさ、悪るふざけ、他人の悪口、おべつかつかひ、さう思つて彼女の知るだけの夫の経験を回想して見たが、そこにも何の「小説」はなかつた――。彼女は、今宵夫が、旧友に誘はれて遊里へ赴くことを心から祈つた。
 頼りない無能の夫の為に健気な祈念を凝らす――彼女はそんな想ひを拵へて、思はず自分自身に恍惚とした。
 その時、言葉の内容は解らないが、厭に騒々しく大きな音声をのせた自動車が、往来でピタリと止つた。
 来たな! と彼女は気づいて、サツと心の構えをして立ちあがつた。
「失敬な奴等だ、やれ[#「やれ」に傍点]/\と云ふから仕方がなくやつたんだ、それを笑ふとは何事だア、第一流の料理屋とは何だ、だからと思つて初めは俺だつて遠慮をしてゐたんだ、へツぽこ会社員奴! あんな芸者が何でエ!」
「もうお宅に参りました、さアしつかり、つかまつて下さい。」
 運転手に支へられて、滝野はよた/\と入つて来た。帽子や羽織を、駒下駄の片方なども運転助手が持つて来た。
「蝉の真似をして何が悪いんだ、他に出来ないから思案の上句、一生懸命になつてやつたんだ、面白ければ笑つても好い、だけど、田舎ツぺえだと云つて嘲笑するとは何事だア、さんぴん野郎奴、同級も糞もあるものかア。」
「何といふ格構でせう!」
 周子は、夫のしどけない身なりを、頭から爪先まで悲し気に見極めた。
「芸者遊びをするには、客の方が芸者を遊ばせてやる心意気でなければ話せねえ――とは何だ、出て来い、さア出て来い。」
「家ですよ/\。家で意張つたつて何にもなりませんよツ。」
 滝野は、余程飲み過してゐるらしく座敷へ上ると間もなく、その儘石地蔵のやうにごろりと倒れた。そしてセイセイと息を切らしながら「蝉だ、蝉だ。」などゝ周子には訳もわからぬことを叫んでゐた。
 その夜の同級会は、二十人近くの旧知が相会して盛会を極めた。酒が回り宴酣になつて、数名の芸者が来た。滝野は、初めから堅くなつて酒の回りも悪かつたが、芸者などが現れると一層堅くなつて、たゞピカピカと横目をつかつてゐた。芸者の歌が済むと、順番に客が歌ひ始めた
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