ンだよ。どうかすると谷を越へた向方の山蔭へなど書斎を移してゐる俺の注意を呼びさますために、丘の頂きに立ちあがつて信号をするのである。何しろ斯んな鍋や飯盒をぶらさげて谷を渡つたり、丘を越へたりするのでは堪らないから、サイレンを聞いた時には、此方でも立ちあがつて音響の方へ駆け出すべき約束なのである。
それはさうと、今時は麗らかな日ばかりが打ち続き、まだ/\爬虫類も出没しないし、間もなくすたつてしまふであらう斯の珍奇な風俗が盛んの間に幾分の好奇心を持つて訪れて来ないか。僕は僕で、そちらの流行に就いて君に依り教示を得なければ居られない多くのものがあるだらうから――その時は新型洋服のカタログと二三本の新柄ネキタイと鏡を一つもつて来て呉れ、その上で僕等は新しい着物に着換へ、何ヶ月振りかで鏡に向ひ、粋なネキタイでも結んで、君と共に此処を引きあげるつもりだから。
やあ、サイレンの音が響いて来るよ。――さつきから鉄砲の音が一つも鳴らぬようだつたから(斯うしてゐても僕は、何となくそれに気をつけてゐるんだぜ。)今日の午飯は、おそらくまた肉類なしの、芋の主食であらうが、斯うしてはゐられないから向方の丘まで
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