二人で相当に長期の旅行をするのが常だつたが(彼にはそんな経験はなかつたが)、そして彼は当時の父のことに対照して母の佗しさに同情したのであるが、父の亡いこの頃はその種の感情が如何しても起らないのが彼は、悲しかつた。……次郎が留守だと思ふと彼は、嘗て経験したことのない種類の、まつたく彼にとつては新しく驚くべき種類の嫉妬を、母に感じた。――以下の数言は省く。
彼は、昔から一人旅を一度も行つたことがなく今に至つてゐる。幼時の稀の家族伴れの遠足は思ひ出してもさつぱり面白くなく、何の憧れも起さなかつたし、中学を出る頃には、出かけないことが身に沁みてゐたから、出かけることを面倒に思ひ始めてゐたし、間もなく近所の娘と恋を語り始めてゐたので、そんな間もなかつたのであるが、そして、その後も旅を想ふ余裕なく因循に暮して来たのであるが、この頃になつて、何となく一人の旅でもして見たい程な心に時々かられた。
「好く出かけさせたもんだなア?」
「だつてもう大丈夫ぢやないか。夏のうちには、また何処かへ出かけるつもりだよ。」と次郎は、誇り気に云ひ放つた。
「さうかのう!」
彼は、今までの続きの戯れの調子で次郎に点頭きを示したが、心は、母に想ひを馳せてゐて、同じ言葉で、母の態度を斯う肯定したのである。さうかのう[#「さうかのう」に傍点]! といふ言葉は、矢張り彼の地方の農民が、思ひ設けないことを聞いて驚嘆しながら沁々と感心する場合に放つ肯定の言葉で、何処にもアクセントがなくのう[#「のう」に傍点]の余韻を非常に長く引きながら喉から胸へ流すのである。彼は、その通りに発音と身振りを摸して点頭いたのである。次郎達は、彼がいつまでもおどけた口調を用ひてゐるので、反つて冷汗を強ひられるやうに笑つた。
「次郎は、いつ帰るのよ、あしたか?」
「四五日、遊んで行かうかと思つてゐる。」
「早く帰れよ、えゝ、早く帰れよ、旅の帰りがけなどに寄り道をしてゐるなんといふことは好くないことだ。」
それ位ゐでも彼が修身的のことを云つたのは珍らしいことなので次郎は、彼が未だふざけてゐるのか? といふやうな顔をしてゐたが、幾度も彼は同じことを繰り反すので、終ひには妙に白けた笑ひを浮べてしまつた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
或る晩彼は、良介に、
「君の方も夏休みか?」と訊ねた。良介が来てからもう一ト月も過ぎた。
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