時、私は、
「馬鹿ツ!」と叫んだ。……「誰が教へたんだ。」
「知つてゐたつて好いぢやありませんか。」
「感じが悪いよ。三ツ児がそんな芸当をやるなんて……。不自然だ、イヂけた感じがする、第一正当な発音が出来ない。」
 周子が自分の里《さと》などへ帰つて、Hに自分の名を云はせて母親などを感心させたりする光景を私は想像した。そしてHが称ふ音《おん》が、滑稽に響いて皆が笑ふであらうことを想つて恥を感じたのだ。だが私は、威厳を保たうとしてさう[#「さう」に傍点]と正直には云はないのである。私は一刻前以上に口を極めて、偉さうに意味あり気な言葉ばかりを連ねて周子を非難した。
「そんなに悪いんなら止めませうよ、二三日口にさへ出さなければ直ぐに忘れてしまひますよ。」
「止して貰はう。」と私は怒鳴つた。「俺の名前はタキノ・シンイチだア。」

 翌朝周子は、
「あなた昨夜は随分酷く酔つたわね。後ろに反つて椅子から落ちたのを知つてゐて? 名前のことで憤つたわね。だけどほんとに可笑しいからもう止めませうよ。」と云つた。
「うむ。」と私は点頭いた。
 新聞に眼を曝してゐた周子は、
「おやツ!」と軽く笑つた。――「島送りの少年悉く逃走す――ですつてさ。(引率の両氏が飲酒中船に乗りおくれて。) まアまア……」
「どれ!」と私も軽い興味をそゝられて、新聞を引き寄せた。――(……目下修繕中の六郷橋の渡しに手間取つたため横浜に着いたのは三時半となり、小笠原行きの近海郵船は定刻の三時に出帆した後だつたので引率の両氏は聊かやけ気味となり某料理店で飲酒中少年等は一斉に逃走す……)などゝ報じてあつた。
 同じ日の午後の出来事だつた。――私は、二階の書斎に引き籠つて、寝転んで天井を眺めてゐた。周子が、疲れ切つた恰好で、そして非常に亢奮して私の傍に来ると、
「ヒデヲが何処かへ行つてしまつた。」と云つて泣き出した。私に聞かせまいと思つて、広小路までも逢初橋までも探したのだが如何しても見つからない、もうかれこれ一時間になる――と伝へた。
「あんな新聞を読んだからかな……」
 私は、カツと取りのぼせて思はずそんなことを口走つた。
「そんなことはありません。」と周子も夢中で、真面目に首を振つた。「私は昨夜いやな夢を見た。」
「迷信は嫌ひだ。」と私は云つた。
 私は、その儘飛び出した。空が好く晴れてゐるのが悲しかつた。――私
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