山男と男装の美女
ミツキイのジヨンニイ
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)短銃《ピストル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七|哩《まいる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)パン/\/\!
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
糧食庫に狐や鼬が現れるので、事務所の壁には空弾を込めた大型の短銃《ピストル》が三つばかり何時でも用意してあつたが、事務員の僕と、タイピストのミツキイは、狐や鼬に備へるためではなく、夫々一挺宛の短銃を腰帯《バンド》の間に備へるのを忘れたことはなかつた。夜、夫々のベツドに引きあげて眠りに就く時にも枕の下に、それを入れて置くことを忘れてはならない――と約束し合つてゐた。
村里から馬の背をかりて七|哩《まいる》も登つた山奥の森林地帯で、谿流の傍らに営まれてゐる伐木工場である。僕は、工場主であるアメリカ人のミツキイの父親に雇はれて、その一ト夏をそこの山小屋で働くために、「冒険」といふ言葉に止め度もなく麗らかな憧れを抱いてゐる十八才のミツキイを伴つて、早春の頃から山に住んだ。
橇引きの伝《でん》は、名前よりも狼といふ仇名の方が有名で、何年か前に村里の居酒屋で酌婦の奪ひ合ひから大立廻りを演じて、相手の炭焼の男を殴り殺した。山猫といふ通称を持つた樵夫の吉太郎は、嘗ては強盗を働いた経験があるといふことを、山で酒に酔ふと(里では決して口にしないといふ。)寧ろ得意さうに吹聴するのが習慣であつた。現在でも、春秋二季に訪れる山廻りの役人が現れると「狼」と「山猫」は、森林の一番奥の洞窟にかくれて、二日でも三日でも、其処に泊つてゐるとのことであつた。二人の他にも、役人の眼を怖れて洞窟に逃げ込む連中には、やはり、猪とか、山犬とか、荒熊とか、モモンガアとか、蝮とか、禿鷹とかいふやうな動物の名で称ばれてゐる、それはもうたしかに土人と云ふより他に見様のない人物が居たが、僕は屡々彼等と共に酒盃を挙げたり、村里に繰り込んで彼等の鞘当喧嘩の仲裁をしたり、また、山小屋の囲炉裡の傍らで開帳される博打の車座に加はつて、勝利を得たこともあるが、一度だつて危害を加へられたこともなかつたし、また僕の見たところに依ると、寧ろ彼等は独特の人情に厚かつた。
「それあさうですとも――」
と僕がいつか彼等の不思議に温厚な恬淡さを見て首をかしげると、山番の老爺が嗤つたことがある。「皆なは一生この山の中で暮す決心を持つた独り者なんだから、女のこと以外で争ひなんて起すことはありませんよ。」
山番は熊鷹といふ通称で、五十年もこの山で働いてゐる人望を集めた山長《やまおさ》であつた。彼も亦、独身者であつた。で僕は、何うしてこの山の労働者は悉く独身者であるのか? と質問すると、彼は更に皮肉気な嗤ひの皺を深めて、
「この森の中に女が現れたら大変だ。誰の女房もくそもあつたものぢやない。忽ち、寄つてたかつて喰ひ殺してしまひますからな。」
彼は、さういふ類ひの怖ろしい挿話《エピソード》をいくつも語つたが、そんなやうなわけで、結局山の中には女は住めない、山の神様は女は不浄なるものとして住むことを許さぬ、山の中に現れた女は神様へのいけにえとして喰ひ殺してしまふことが、神へ対する最も忠実な信仰である――左う云ふ迷信が深く彼等の脳裡に先祖代々から伝はつてゐるのだからといふやうな意味を聞かされた。だから、女のために犯した犯罪は、誰も別段とがめだてをする者もなく、山にさへ住んでゐれば決して市《まち》の牢獄へ曳かれることにはならぬといふことであつた。――彼等の言葉には余程の誇張があるわけで、いくらそんな山の中だつて、そんな、彼等が、口にする程の罪人が、事実横行してゐるわけのものではないのであるが、神様と女に関する掟を信じてゐることだけはたしかであるらしかつた。
一日《ついたち》とか十五日とかの祝日に彼等一同が隊伍を組んで、村里を目がけておし寄せる光景は、恰も永い航海の後に港に着いた海賊船の隊員を目のあたりに見るが如く、全く血に飢えた猛獣に等しいものであつた。彼等は半ヶ月の間に貯へた労金の袋を景気よく鳴らしながら、ワアーといふ唸りを挙げて村里の酌婦茶屋《オブシーン・ホテル》へ突貫すると、飲み、歌ひ、踊り、激しい一夜の歓楽を貪り尽して、夜明けを待つて山へ引きあげるのであつたが、この夜は娘を持つた家々は堅く扉《と》を閉して番犬の備へを忘れなかつた。村に営まれる三軒の茶屋は彼等の到来のため
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