酒盗人
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)長蛇船《ロングサーバント》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海賊の|戦ひの唄《バルヂン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ブラボウ/\!
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 私は、マールの花模様を唐草風に浮彫りにした銀の横笛を吹きずさみながら、
[#ここから2字下げ]
………………
おゝ これはこれ
ノルマンデイの草原から
長蛇船《ロングサーバント》の櫂をそろへて
勇ましく
波を越え また波と闘ひ
月を呪ふ国に到着した
ガスコンの後裔
………………
[#ここで字下げ終わり]
 と歌つた。
 節々をきざむ私の指先が、花模様の笛に反射する月の光りのうへに魚となつて躍つてゐた。――明る過ぎる月夜の街道であつた。笛を吹く私のシルエツトが、あまりはつきりと地に描かれてゐるので、もう一人の合奏者が私の先に立つて水を渉つてゆくと見られた。月は一体、どのあたりに歩みを停めてゐるのかと私はいぶかふて、なほも切りに笛を吹きながら後ろの空を見あげたが、空はたゞ一面に涯しもなく青白く明るみ渡つてゐるだけで月のありかを指差すことは出来なかつた。さかさまに懸つて空を踏んで行く――私は、空を行く悦びも地を踏む悲しみも知らぬ月の光りの如き涯しもない永遠の夢心地で、おもむろに歩みを速めて行つた。朦々と明るみ渡つた煙りの縞瑪瑙に畳まれた長廊下を――。
 たつた今私は、務め先の魚見櫓の台上から、望遠鏡を伸して村里の様子を眺めて見ると、橋のたもとにある一軒家の私達の居酒屋《サイパン》の前に旺んな焚火の火の手があがつて、その傍らを、拳を振りあげたり、躍りあがつたりしながら、何れが誰やらさだかには識別出来なかつたが、狐に化された連中のやうに烏頂天となつた影法師が次々と酒場の中へ繰り込んで行く模様をみとめたので、こいつは、てつきり、俺達が首を伸して待ち焦れてゐたところの音無村から酒樽の荷が到着したに相違ない……。
「ブラボウ/\!」
 と私は思はず拳を振つて歓呼の叫びを挙げながら、高さ凡そ十余丈もあらうといふ長梯子を、実《げ》にもものの見事に滑るが如くに駆け降りたのである。
 いち日に何辺ともなく昇り降りする魚見櫓の梯子であるが、こんなに愉快に駆け降りたことはまつたく珍らしい。その上、サイパンの酒樽が空になつて以来、もう幾月か? 指折り数へて見れば、あれは、たしか十五夜の月見の宴の時であつた。私達の宴会が漸くたけなはにならうとした時に、
「ギヤツ!」
 といふ、たゞならぬ恐怖にふるへた絶望の唸り声が酒場の隅に起つたので、見ると、サイパンの亭主が、片手に樽の呑口を握り、片手にジヨツキをぶらさげたまゝ、悲鳴と一処に昏倒するところであつた。
「お父さん、お父さん……」
 私が奏でる横笛と私の妻君が弾奏する手風琴に伴れて、タンバリンを振り回すメイ子を中心にして酒場の連中がグルリと手をつないでカロルを踊つてゐたところ、父親の唸り声を聞くと、娘は、雉子のやうに人垣を飛び越えて父親にとりすがつた。
 私達は、また大地震が起つたのかしら! と驚いて、それまでの身構へを執り直したが、次の瞬間に、憐れなその源因を発見した。
「どくつ! とひとつ、何とも云ひやうのない不思議な音をたてゝ、呑口が鳴つた。……あゝ、万事休す矣!」
 サイパンは、私達にとり巻かれて、娘をかき抱いたまゝ、堅い片方の拳で眼眦を突くばかりであつた。
 私は、からからと笑つて、
「馬小屋からドリアンを曳いておいで――僕が、早速音無村へ駆けつけて、三樽の酒を仕入れて来よう。」
 と胸を張り出して、メイ子に向つて裏手の方を指差した。
「僕が出向けば大丈夫だよ、一刻の後にはサイパンの酒場は置きどころもない酒樽の山で埋めるよ。皆な、その辺の腰掛を片づけて、輪をひろげてカロルをつゞけてゐたまへ――今夜の月見は酒樽に腰掛けて……」
「僕の言葉に不安を覚ゆるのは、カレドニアの海賊の出陣にあたつて敗北を夢見るよりも愚かな心配さ。」
 然しメイ子は、既にもう鬼のデスマスクをかむつて瞑目してしまつた父親の胸に顔を伏せて、たゞ激しく首を振つてゐるばかりであつた。
「破産だ――もう、死んでも好い……」
 サイパンは微かに唸つた。
 これほど云ふのに、何うも私には得体が知れない――で私は、一層たのもし気に胸を張つて、
「ねえ、諸君!」
 と、一同の顔をかへりみた。一同の声援をかりて、この父と娘の不思議な悲劇の一場面に笑ひの花を咲かせてやらなければならぬと考へて、私は更に磊落な音声で、
「酒樽が二つや三つ空になつたと云つて、そんなに俺達の前で愁嘆するなんて、それぢや反つて俺達の顔を潰すようなものぢやないか、はつはつは……うつふ、何といふ面白くもないナンセンス・ドラマであることよ。うつふ、うつふ……。
[#ここから2字下げ]
羨君有酒能便酔《うらやむきみがさけありてよくすなはちゑふことを》
羨君無銭能不憂《うらやむきみがせんなくしてよくうれへざることを》
………………
[#ここで字下げ終わり]
 ドリアンを曳け、ドリアンを……」
 と、大いに叱咤の腕を挙げるのであつたが、一同も亦黙々として一言の声を発する者もないのである。――見ると、彼等は五百羅漢のやうにたゝずむだまゝいつまでも洞ろに光つた眼《まなこ》をあちこちの空に挙げてゐるのみであつた。
 間もなく私は、サイパンが私達を常連とする限り近郷近在のあらゆる酒問屋は、一切の御用を御免蒙ると由し合せて[#「由し合せて」はママ]ゐるといふ話を説明された。――この上私に、そんな歌をうたはれては、胸に涙さへ込みあげて来ると一同の者も思はずそろつて否々と首を振り、興醒めの風穴に吸ひ込まれて行つた。その私の詩《うた》を耳にすると、身の毛もよだつと云ふのであつた。この上、銭《せん》なくして能く不憂、能く便ち酔はれては、俺達も早々に住み慣れたる故郷《ふるさと》を逐電しなければならなくなるであらうと私は、泣かされた。
「黙れ、馬鹿野郎《バアバアル》!」
 と私は、大いに感興を殺れた腹立ちまぎれに、思はず傍らの漁夫の七郎丸の頭をぽかりと擲つた。
「…………」
 七郎丸の眼から球のやうな涙がポロリと滾れ落ちた。といふのは私の拳が痛かつたのではなくて、私の「永遠の夢」と現実との喰違ひが、憐れで、且また同情の念に堪へぬと云ふのであつた。
「先生!」
 と彼は、真に譴責を享けつゝある兵士の態度で云つた。「この悲しみを先生に見せまいと思つて私達は今日まで、あらゆる方法を講じてサイパンの樽を持ち続けて来たのであるが……」
 するとあちこちから溜息と咽び泣きの声が起つて、酒場は忽ち落莫たる秋の野原と化してしまつた。
「七郎丸、そんなことを先生に云つてはいけない……」
 メイ子は飛びあがつて七郎丸の口腔《くち》を両手で閉した。
「静かにしろ、バアバアル――それなら、それで俺にだつて思案があるぞ。」
 つい私も泣きたくなりさうになつたので、震へ声で叫んだ。私の発声と共に、一同は、思ひをとり直した如く立ち直つて、どや/\と各自の腰掛に戻るより他はなかつた。サイパンも息を吹き返して、メイ子に腕を執られながらストーヴの火を掻きたてた。
 私は、いつぞや私が自ら描写したイダーリアの肖像画が懸つてゐる正面の酒注台に飛び乗つて、両脚をぶらん/\させながら、
「さて、諸君、今の私の暴言を許し給へ。」
 と一咳と共に云ひ放つた。――私は、一週に二回の宵を限つて、此処で、斯うして、彼等に「ギリシヤ哲学」の講義をするのであつた。――宇宙の根元は単なる火か、単なる水か、非ず、万物は永遠に火と水のしぶきをあげて流転する巨大なる水車《みづぐるま》なり、しぶきは絶え間なく遍々と飛んで混沌の虚空を宿す、影去りて光り射し、或る時は、雪晴雲散北風寒《ゆきはれてくもはさんじほくふうさむく》、光、影、火、水、このきらびやかな流転の姿に宇宙の秘義《ミステリウム》あり、恍惚《エクスターゼ》が生じ、生成の浴霊《エンツシアスムス》……二年前の春であつた、私は何うにでも大きくさへ云へば事足りる原始哲学の大法螺の巌を砕いて、縷々と説き来つて、プラトンの野を過ぎ、アリストテレスの街を飛んで、事態漸く中世の戦場に移らうとした頃から哲学と芸術との境が滅茶苦茶になつて、近頃では、主に騎士道文学の享け売りを読物として、まんまと生徒から聴講料をせしめるソフイストとは成り変つてゐた。
 おい、やかましいぞ、皆な少し静かにしろ――その頃の騎士の間では、それ程の意味を表すに、バアバアルと叫ぶのが流行した、源を正せば非ギリシア人といふ程の意味で、引いては一種のスウエヤアに等しく用ひられるに至つた。この言葉を浴せられた者は、手もなく一言の許に引きさがらざるを得ないといふ不文律が生ずるに至つたのである……。
 私は、そんな智識を披瀝して、いつしか私達の間では、これが常用されるに至つてゐたのだ。滅多に放言しない代りに、何人に依らず、いかなる理由があらうとも、一度びこれを相手に叫ばれたならば、沈黙の浴霊にひれ伏さなければならなかつた。
 私は、岬を一つ越へた音無村に父祖の縁家先にあたる業慾な酒造業者が住んでゐて、奴の為に私は様々な被害を蒙り、云はゞ奴の為に私はこのやうに浅間しい浪々の身分とは化したのである、それ故、盗めるものなら盗み出しても罪とは思はぬ、だが、こゝで一番私が智慧をふるつて、ソクラテス流の対話法に依る弁舌をもつて彼の酒造家を説伏せしめて、難なく酒倉の扉を開かしめてやらうと思ふのであるが、
「それでも諸君は、今宵の月に不安の雲をかけようとするか?」
 と私は、マセドニアのフリツプを抗撃するデモスデネスもどきの雄弁をふるつて情熱の鬼と化した。喉の痛さを覚へたので私は傍らの水桶をとりあげると、それはドリアンのかいば水だ! と注意されたが、関はずにがぶ/\と呑んだ程の逞しい感情の意気に炎えた。
「ミスター Happy Pendulum!」
 と私の仇名を呼んで立ちあがつたのは、村役場の執達吏であつた。「残念ながら、その手は巌に向つて矢を放つよりも空しい戦略であります。既に音無家《おとなしけ》に於きましては、門番に命じて吾々一味の者の姿を見出すがいなや即座にあの[#「あの」に傍点]黒い扉を閉めて、あの[#「あの」に傍点]閂を入れさしてしまふ……」
 云ひも終らず彼は絶望の息を呑んで、引きさがつた。
 あの扉と、あの閂! それは実にも、一度び閉されたならば人力の微弱さを嘲笑ふ開かずの表象《シンボル》に相違なかつた。
「昨日も私はサイパンと伴れ立つて、談判に行きましたが……」
 続いて立ちあがつたのは牛飼男の権太郎であつた。「私は、この拳が割れる程門の扉を叩きました。と、頭の上の物見窓の口があいて、門番が顔を出して、金袋を持つて訪れたのかね、と申すので、否、それに就て相談があるのだ、金袋よりも確実に重味のある提言を引つさげて参り出たのであるから、兎も角、扉を開いて欲しい――と私達は、こゝぞと思つて、今の先生の熱弁よりも凄まじい剣幕で窓先に取り縋らうとした途端、門番は、大口をあけて嗤ひながら、お前達がめいめいに金袋をぶらさげて、こゝでぢやら/\と鳴らしたならば、そいつを合図にこの門を開け――といふ御主人の命令だよ、斯う云つて……」
「では僕は、先づ門番と対話を試みる。親戚会議の急用をひつさげて訪れたのだ、主人を出せ……」
「いえ/\――」
 とサイパンが幽霊のやうに手を振つた。「ペンドラムの姿を発見したならば、一切の声がとどかぬ間にあらゆる窓々の扉を有無なく閉ぢて、耳には蝋をつめろ、彼奴は一種独特な笛吹きの術と弁舌をもつて人をたぶらかす手腕に長けてゐて、聴く者あらば必ずその心を囚へ去り……」
「バアバアル……一体これは何うしたら好からうか。」
 私は、サイパンが音無の主人の口調を伝へてゐるのにも関はらず
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