て私は振り返つて見ると、酒倉から母家へつゞく灌木の繁みを縫つて、右方左方に提灯が飛び交ひ犬の遠吠えの声に入れまぢつて、たゞならぬ人々の仰天の叫びが吹雪となつて飛び散つてゐた。
「追手が来ると面倒です。鉤に脚をかけて下さい、先生――よろしいか。Tattoo !」
 七郎丸が口笛で合図すると、今度は酒樽の代りに私の五体が軽々と宙に浮んだ。
「執達吏と収税吏が、泥酔してしまつて、いつかな動かうともしませんが?」
「バンドに鉤をひつかけて、救ひ出してやれ、裏切者と思ふな――、君は、五本目の綱に飛び乗つて、酒倉の屋根を飛び越えるのだぞ。あゝ、面白い/\。」
 さう云つて私は、真に月世界の大時計の振子と化した想ひで、高く低く、次第にその振幅を増して、宙に能ふかぎりに大きな弧を描いた。
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[#ここから横組み]“Tattoo Tattoo”[#ここで横組み終わり]
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 不図気づくと、もはや、私はサイパンの酒樽に凭りかゝつて、酔後の一睡を貪つてゐたところであつた。
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Tattoo Tattoo !
フアラモンよ フアラモンよ
そして吾等が凱旋のあかつきは
[#ここで字下げ終わり]
 酒注台の片隅で古風なオルゴールが、勇ましい軍歌を歌ひ出してゐた。
 これは私の寄贈に関はる自動オルガンで、銀泥に朱の馬鞭草《うまつゞら》と、金色の凌霄花《トランペツトフラワア》を鍍金した総鞣皮張りの小箱であるが、殊の他に大きな音響を発するので、メイ子は帰館の時も忘れて眠りほうけてしまう酔漢達の夢を呼び醒すためのコーリング・ベルの代用に使つてゐた。
 強弱々、強弱々――と、いとも原始的な淋漓たる韻を踏んで鳴り出すバルヂンの音響に打たれると(歌詞は私より他に知る者とてもなかつたが――。)何んなに凄まじく眠り込んでゐる酔漢であつても、忽ち目を醒してしまふのが慣であつた。
 あちらの樽、こちらの樽の蔭からむくむくと起き上る人達を見ると執れも私の戦友共が、蹣跚たる夢に飽きて、もう一度私達夫妻の合奏に伴れて花々しくカロルを踊つて、今宵の慕を閉ぢよう――と云ふのであつた。
 それにしてもあれら[#「あれら」に傍点]の何処までが私の夢であつたか、或ひは夢と云ふのは私のごまかしであるか――それを判別すべく、焦れた酒の香に酔ひ痴れたまゝの私の頭では、少くとも明日を待たねばならなかつた。あれら[#「あれら」に傍点]が悉く夢であつたならば、このいきさつを私は再び一篇の物語に綴り代へて、親愛なる諸君の前に披瀝したい望みを持つてゐる。
 ともかく、これらの酒樽は尋常の手段に依つて獲得したのではない――といふことは事実である。
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………………
時は流れる
いまはのきはに吾等は微笑《わら》はう
Tattoo Tattoo !
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「あれあれ、もうお前さんの用は済んでしまつたんだよ、皆さんは大変御気嫌好くお目ざめになつて、これから、もう一度仲善くカロルを踊らうといふところなんだよ、御苦労/\可愛いいあたしのバアバアル!」
 メイ子は生物に物言ふように呟くと、オルゴールを抱きあげて頬を寄せながら休止のボタンを入れた。
 不図私は、窓から岬の方角にあたる空を見上げると、昼間のやうに白く明るい光りの中に月とすれすれの高さで漁場の櫓が悄然と聳えてゐた。それが、知らぬ国の風景のやうにほのぼのと眺められた。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「酒盗人」芝書店
   1936(昭和11)年3月18日発行
初出:「文藝春秋 第十巻第二号」文藝春秋社
   1932(昭和7)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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