見櫓の梯子であるが、こんなに愉快に駆け降りたことはまつたく珍らしい。その上、サイパンの酒樽が空になつて以来、もう幾月か? 指折り数へて見れば、あれは、たしか十五夜の月見の宴の時であつた。私達の宴会が漸くたけなはにならうとした時に、
「ギヤツ!」
 といふ、たゞならぬ恐怖にふるへた絶望の唸り声が酒場の隅に起つたので、見ると、サイパンの亭主が、片手に樽の呑口を握り、片手にジヨツキをぶらさげたまゝ、悲鳴と一処に昏倒するところであつた。
「お父さん、お父さん……」
 私が奏でる横笛と私の妻君が弾奏する手風琴に伴れて、タンバリンを振り回すメイ子を中心にして酒場の連中がグルリと手をつないでカロルを踊つてゐたところ、父親の唸り声を聞くと、娘は、雉子のやうに人垣を飛び越えて父親にとりすがつた。
 私達は、また大地震が起つたのかしら! と驚いて、それまでの身構へを執り直したが、次の瞬間に、憐れなその源因を発見した。
「どくつ! とひとつ、何とも云ひやうのない不思議な音をたてゝ、呑口が鳴つた。……あゝ、万事休す矣!」
 サイパンは、私達にとり巻かれて、娘をかき抱いたまゝ、堅い片方の拳で眼眦を突くばかりであつた。
 私は、からからと笑つて、
「馬小屋からドリアンを曳いておいで――僕が、早速音無村へ駆けつけて、三樽の酒を仕入れて来よう。」
 と胸を張り出して、メイ子に向つて裏手の方を指差した。
「僕が出向けば大丈夫だよ、一刻の後にはサイパンの酒場は置きどころもない酒樽の山で埋めるよ。皆な、その辺の腰掛を片づけて、輪をひろげてカロルをつゞけてゐたまへ――今夜の月見は酒樽に腰掛けて……」
「僕の言葉に不安を覚ゆるのは、カレドニアの海賊の出陣にあたつて敗北を夢見るよりも愚かな心配さ。」
 然しメイ子は、既にもう鬼のデスマスクをかむつて瞑目してしまつた父親の胸に顔を伏せて、たゞ激しく首を振つてゐるばかりであつた。
「破産だ――もう、死んでも好い……」
 サイパンは微かに唸つた。
 これほど云ふのに、何うも私には得体が知れない――で私は、一層たのもし気に胸を張つて、
「ねえ、諸君!」
 と、一同の顔をかへりみた。一同の声援をかりて、この父と娘の不思議な悲劇の一場面に笑ひの花を咲かせてやらなければならぬと考へて、私は更に磊落な音声で、
「酒樽が二つや三つ空になつたと云つて、そんなに俺達の前で愁嘆するな
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